本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

Log19.一過性のものか永遠か

某月某日。

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと死の秘宝』を読んだ。

不死鳥の騎士団辺りで「そういえばハリポタはずっと死について書いてるな?」と思い始めたんだけど、最終巻で主人公にこんな死の向き合い方、向き合わされ方をさせるなんて。

ハリポタシリーズを読み切るまでは、このシリーズが死にどうやって向き合うか、死をどうやって受け入れるかをずっと書いてるものだとは思わなかった。


ハリーは「生き残った男の子」だけど「生き残ってしまった男の子」でもあり、サバイバーズギルトみたいな責務が生まれてしまって、愛されたから生き残ったというけど、それは重くもある。そしてそのせいで死にそうになるなんて。

 

 

 

 

某月某日。

阿久津隆『読書の日記』を読む。

 

誰かに優しくしたり気を使っても私は誰かに優しくされたり気を使われることはなくて、でもそれって私の優しさや気使いが唯一無二で至高だからでは?と思える文章があった。誰かに優しくし返してもらったら、その誰かの優しさの方が価値がある、または等価ということになるもんね、と霧が晴れるようだった。

でもこれもこの一瞬だけなのかもしれない。それともこの言葉はずっと私の元にあり続けるだろうか。また霧が立ち込めた時に思い出して晴らしてくれるだろうか。

 

 

 

 

某月某日。

好きな作家さんが最近ずっと親としての愛情や苦悩、夫婦関係の悩みばかり書いていてちょっと辛い。そんな経験は私にはないのでずっと他人事として読んでしまっているというか、入り込めないというか一抹の寂しさを感じている。

自分では経験できない出来事や苦悩を追体験できて、自分とは違う立場の人間の感情を知るということは大事なことなんだけど、やっぱり他人事は他人事だし、私なんでこの作家さん好きなんだったっけとなってしまう。

やっぱり平均的な人生を歩んだ方が寄り添ってくれる物語は多いんだなと思う。

でもそうすると、物語というものは自分とは違うマジョリティの人間の生態を知るもので、平均的なものを知り話を合わせるため、浮かないための学習になってしまう。

 

男の人は趣味の話で盛り上がり私的な話はしない、女性は私的な話で盛り上がる、なんてことを聞いたことがある。

ライフステージが一緒でないと私的な話じゃ盛り上がらないから、だんだんと男性的な趣味的な話しかしなくなるのでは。

 

某月某日。

宮田愛萌『春、出逢い』を読んだ。

キャラ小説だった!好き!キャラの感性や思考のクセを楽しんで、キャラとキャラの関係性を楽しむ小説って良い。
青春という装置、学校という舞台はキャラ小説が映えるのかも。アイドル小説もいいけど。
愛萌さんはちょっとした感慨やちょっとした行動を描写するのが上手だ。

話の展開には直接関係ないようなそういう細部にキャラは宿る。愛萌さんはそういうのがうまい。

続編が今度発売されるみたいだけど、これの続編ってなんだろう、どんなのだろう。

 

 

宣伝です!

読書友達と読書往復書簡と称して一冊の課題本を読んだ感想を書き合うnoteを初めました。

これまでに西加奈子『うつくしい人』、芥川龍之介『地獄変』について記事をUPしています。

ぜひチェックしてください!

 

さやとマヤの「きみと読みたい」|note

 

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63.『悪い血』&受賞予想

鈴木涼美『悪い血』を読んだ。今回最後の芥川賞候補作。

金原ひとみ『YABUNONAKA』に出てくるみたいな理解のある彼くんが出てきて、結局行き着くべき「しあわせ」とはそこなのか?みがあって興味深かった。

理解のある彼くんって白馬の王子様みたいに絶滅危惧種というかそれよりもそもそも存在しないペガサスとか、そんなものなのではないだろうか。

でも『悪い血』の主人公は理解ある彼くんに救われてるわけじゃなくて、理解あるからこそ苦しんでいる。自分のことを自分で責めているから、そのぶん人から許されていることもなかなか受け入れられない。結局同じ境遇にある自分と似たような人間に肯定されることで、自分を許し始める。ということはつまりそれって、自分で自分を許すしかないってことなのか。

 

もうひとつ思い浮かんだ金原ひとみ作品があって、それは『腹を空かせた勇者ども』という作品だ。金原さんはこの作品を「 この世に小説が存在していることを知らないような愛しい陽キャの小説」と言っていたけど、『悪い血』の主人公も特に小説は必要としていない人物だ。

父親が本を読む人で、子供の頃に父親から本を読み聞かされたり、子供でも読みやすそうな本を本棚の手に取れる位置に置いてもらったりしたけれど、結局本を読む大人にはならなかった。

だけど私は、この本を主人公のような本を読まない人にこそ、読んで欲しいし、本を読まないような人こそこの本を必要としているのではないかと思った。

 

 

 

ここからは芥川賞候補作全体の感想と受賞予想です。

今回の候補作は全体的に登場人物の「行き詰り」が書かれていたように思います。一番最初に読んだのが『ソリティアおじさんがいた頃』だったので、そこで出てきた「行き詰り」というワードに引っ張られたのかなと思ったのですが、『アンチ・グッドモーニング』は職場環境と不眠に行き詰っていたし、『丹心』のレン君は現地住民との交渉に行き詰まっていたし、あながち間違いではないかもしれません。

しかしそもそも小説って登場人物の行き詰りを書くものなので、なにも今回に限ったことではないのかもしれませんが、今回は特に行き詰り度が高めだったような気がしています。

 

あとはそれぞれの作品でパートナーが機能不全になっていたような。『アンチ・グッドモーニング』の夫婦も『ゾンビ回収婦』の夫婦も『悪い血』もお互いが支え合い打開策を見つけていくというよりも、打開策となるのは夫ではなく、ヤクルトレディのような女性だったり母親だったり友人だったりして、結局女は女によって救われるエンドしかないのかとなりました。『丹心』のパートナーは男と男で、先生とアシスタントでしたがこちらも展望が開けるような終わりではなかったですし。

 

今回の芥川賞候補作に共通するものは、「労働」「行き詰り」「女を救うのは女」なのかもしれません。

なかでも私は労働と行き詰りの書き方が好きだった『ゾンビ回収婦』と、女が女によって救われるシーンが一番好きだった『悪い血』の二作を受賞予想作としてあげたいと思います。

『悪い血』は二作受賞の二作目として受賞してほしいです。なぜなら本を読まない、主人公と似た境遇の人にとって救いの一作になりそうな気がするから。そういう人にこそ読まれるべき作品だと思うので、受賞してたくさんの人に知られてほしいと思います。

 

 

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62.『丹心』

第175回芥川賞候補作品を全部読む試みもこれで3作品目。これまで読んできた候補作と比べて、未来に向ける視線があった。しかしそれは希望溢れる未来ではなく、現実が見えてない権力者が押し付ける未来だ。

 

中国にある集合マンションを美術館に作り替えないかという提案がきて、建築家は設計図を書き、そのアシスタントは集合マンションに未だ住んでいる人達へ立ち退きを要求する。

だが立ち退きはなかなかうまくいかない。集合マンションは悪臭が漂うなど、なかなかハードな状況だ。

しかし建築家はそんなことは露知らず、現実に希望を持って未来に賭けるだとか、タテの繋がりよりもヨコの繋がりを広げていきたいとか、理想ばかり語る。

 

現在と地続きでない未来など空疎だ。

 

未来に賭けるとは、すなわち現在に絶望することだ。けれど現在に絶望すれば未来などありうるわけがない

 

この建築家のように現実が見れてないタテのトップが「ヨコの繋がりを大事にしよう」というのはそれ自体が上からの押し付けでパワハラだろう。

現場の苦労も知らない上司が肩を組んできて「俺たち平等だよな!友達になろうぜ!」と言ってくるような怖さがある。

本屋大賞を受賞した朝井リョウ『インザメガチャーチ』にも似たようなシーンがある。おじさんが若者と友達になろうとして若者にドン引きされるシーンが。おじさんにも多少の同情の余地はあるけど、突然家に押しかけられた若者の立場からするとやはり怖いものがある。

おじさんがタテの構造を無視して横に対等になろうとするのはもはやパワハラなのだ。

 

建築家の、美術館にコンパートメントも併設して、今立ち退きを要求している人たちの住居にしようというアイディアも、なんだか権力者や強者の欺瞞や傲慢のようにみえてくる。

 

この建築家のいう「現在」というのは所詮「自分にとって」の現実でしかない。他人の現在が見えていない。妊娠中の妻のつわりなどに対してもどこか他人事だ。他人の現実はあくまで他人事で、自分の現実と理想だけにしかリアリティがなくて、その延長線上にある未来しか見えていない。

 

未来のことなんて考えられず行き詰まっている現実しか実感できない人、立ち退きを要求されている住民、立ち退きを要求しているアシスタント、他の芥川賞候補作『アンチ・グッドモーニング』や『ゾンビ回収婦』の主人公のように行き詰まるしかない人たちのことが見えていない。

 

おまけにこの建築家はふんわりと害悪男性の香りがする。この人物像にはどこまで作者の作為性があるのかなんだか気になってしまった。そんなこと気にするのは野暮ってものかもしれないが。でもどうやったら作家と作品を切り離せるのか。切り取り線をどこに見出すかはどうやって作品から読み解くのだろう。

 

 

 

61.『ゾンビ回収婦』

小砂川チト『ゾンビ回収婦』を読んだ。

『ソリティアおじさんがいたころ』、『アンチ・グッドモーニング』に続いてこちらも芥川賞候補作。前に読んだ2作に続いてこちらも労働の話だった。

 

主人公は、ゲームの中で倒されたゾンビを回収する仕事をひたすら続ける。

彼女には魂も意志もなく、ただ自分が「効果的に機能、し続け」「作用しうること、毎秒絶えず、確かめて」いられればいい。

意志はないといっても社会の歯車になりたいという意思だけはある。彼女はそういった意思、自己効用感に取り憑かれたゾンビだ。自己効用感に取り憑かれ、常になんらかの目標行動を必要としている。

 

いまのわたしにはなんらかの目標行動が必要だった

 

RPGなどのゲームの中では、NPC(ノンプレイヤーキャラクター)に話しかけると次にやるべきことのヒントを得られ、目標行動が決まる。それを次々こなしていけば、ゲームクリアになる。

 

ゲームと違って現実の人間はそうそう目標なんて持てないし、持ったとて持たされたとて、何をどうすればその目標に近づけるのかわからない。だから主人公の目標行動が欲しい目標にたどり着けるように段取りを組んで欲しい、という気持ちがわかる。

ゲームのように目標とそれを達するための段取りを組んで欲しいし、55段階個別指導のように筋道たてて導いてくれたら楽なのになぁと思う。

目標を持ち、あるいは持たされ向かわされるのはそうした予備校まで大学受験までだと思っていたけど、企業によってはメンター制度なるものがあり、目標を考えて段取りを組んでくれるらしい。一方でそれは目標を持たされ成長、上昇を強要されるということだ。

常に上を目指さないといけないのもしんどい。目標を考えてくれて段取りを組んでもらっても上昇するのは自分で、自分に負荷がかかる。

 

主人公はゲームの中で倒されたゾンビを回収する仕事をひたすら続ける。ゲームの中では労働をし自己効用感を得られるが、それは現実にはなにも生み出さない。現実ではゾンビを倒しているだけでは許されない。それでは社会の歯車にはなれない。ハムスターが回し車を回しているだけの状態で現実にはなにも影響を及ぼしてはいない。

そして意識はずっとゲームの中にいるが、体という物体はどうしても現実から逃れられないので、トイレにも行かなきゃいけないし食事も取らないといけない。

ゲームの中に居続けることは、社会が許さないし体も許さない。

人間は生まれた瞬間から社会の歯車でいることを強要されているし体に縛られているのだ。

 

現実の社会にはなにも効用していないのに、社会の役に立っていないのに、自己効用感を得るためだけにゲームをしてしまうというのは、自己効用感に取り憑かれているゾンビだ。ゲームをプレイする消費者という意味では、その消費で社会の役には立っているのかもしれないが、全く健全ではない。

 

主人公は自己効用感ゾンビになってゲームの中で機械として生き続けようとしたけど、体がそれを許さなかったし、良識ある人間によって現実に引き戻された。しかしまたゲームの中に戻っていきそうな気配もある。まだまだ彼女は取り憑かれている。

まるで『もののけ姫』のなかでモロに「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い、かわいい我が娘」といわれるサンのようだ。人間にもゾンビにもなれない、哀れで無様で、だけど放っておけない。人間ってやはり自己効用感を求めてしまうものなのだろうか。誰しもが自己効用感ゾンビになる可能性を秘めているのか。

 

発生する賃金のためにとか、生活のためにとかいうのはじつはどれもぜんぶ、体のいい建前です。それにかこつけてだれかとかかわりあいになりたいというのが、ほんとうです。傷ついた大人たちはもうすでに、そうした大義なしにはこわくてまともに人間関係をつくれないから、そこにたがいの〈役割〉を噛ませるのです。

 

人間関係が複雑になり希薄になり、仕事でしか自己効用感を得られない自己効用感が一番得やすいのが仕事となって来ているのが現代なのではないか。そうして人々は仕事に取り憑かれていくのではないか。

 

『ソリティアおじさんがいたころ』のソリティアおじさんが何も目指さずどこにもいかず労働もせず職場でソリティアをやり続けていたことを考えると、ソリティアおじさんは自己効用感から逃れられた希少な存在だったのかもしれない。

自己効用感を求めてしまう人間の習性から逃れられ、現実の中に根差しつつもゲームに逃避できたソリティアおじさんは、衣食住がままならないほどゲームにどっぷり浸かったゾンビ回収婦よりかは幸せだったのかもしれない。

『アンチ・グッドモーニング』の主人公のように仕事に全精力を注ぎ不眠になるわけでもなく、自己効用感ゾンビになってしまったわけでもない。

ソリティアおじさんの最後は不運で穏やかなものではなかったけど、『アンチ・グッドモーニング』『ゾンビ回収婦』を読んだ後ではそんなに不幸な人生ではなかったのではないかと思えてくる。

 

 

 

 

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60.『アンチ・グッドモーニング』

このブログで無意識に何度も書いてしまっている願望に、「私は私から逃れたい」というものがある。第175回芥川賞候補作の八木詠美『アンチ・グッドモーニング』にもそんなことが書かれていた。「私が私であり続けることのつらさ」が。

そしてそれは前回書いた村司侑『ソリティアおじさんがいたころ』と共通する「行き詰まり」の話でもある。

 

『ソリティアおじさんがいたころ』の行き詰まりは、彼との未来の見えなさ関係の行き詰まりだったが、『アンチ・グッドモーニング』はホワイト企業としての顔を保とうとするあまりにブラックさが増している職場環境とそれによる不眠が行き詰りとして書かれている。

主人公は不眠解消に協力的な夫と共に様々な快眠グッズを取り入れ、食生活体質改善に取り組むが、まったく寝れない日々が続く。

寝れないことの何が辛いって、意識を手放せないこと「私が私である」という意識を手放せないことだ。自分の体に対する意識も生活も未来も過去もこの世界に対する意識も寝れないということも寝たい寝なきゃということも起きて意識があるかぎりずっと纏わりついてくる。

そんな眠れない日々が何か月も続いたあとに、主人公の前に「魂の一部を差し出せば眠れるようにする」という悪魔みたいな笑うセールスマンみたいな人間が現れる。

「わたしはあまりにわたしを続け過ぎていた。魂の一部ぐらいあげたっていいじゃないか」と魂を差し出しそうになっているところに今度はヤクルトレディみたいな人間にこう言われる。

あなたはこれ以上、受け身を学ぶべきではありません。もちろん受け身はある種の手段です。しかしあなたはそれを学び過ぎました

 

賢いふりをしながらインスタントな手段を取り続け、ご自身を少しずつ弱らせているということです

 

眠れるということは意識を手放せる、私の一部を手放せるということだが、それには魂の一部を差し出さなければならない。これはどういうことだろう。

 

受け身を取り続けた結果魂を差し出す。魂を差し出すという行為が、受け身の極致にある気がする。

魂の一部を捨てるとは私を手放すということか。

しかし主人公は魂を捨てることを諦める(私を捨てることを諦める)ことで、束の間意識を手放すことに成功する。寝れるようになる。仕事を休み睡眠以外の全てを投げ打つことで、私との距離感を上手く掴むことができ、私と上手く付き合っていくことができるようになる。

魂を捨てるというインスタントな手段(受け身を取り続けるスタンス)を捨てて、私を捨てることを諦め受け入れることで、意識を手放すことに成功する。

 

魂さえあれば意識は飛ばせる。私から逃れられる瞬間を得られる。

魂さえあれば、私は私でいられるし、時に私を手放すことができるということなのか。

 

魂を売るといっても、売ったらそれが買い手の持ち物になるだけで、私の魂はずっとその手に握られている。仕事の悪魔にずっと魂を預けて仕事のことしかできなくなるということなのか。魂を売るとか捧げるという言葉は全身全霊でそれに取り組むというイメージだけど、その一部を売るってどういうことなんだろう。

 

魂と睡眠と私である意識と受け身。それぞれどんな関係になるのか頭が混乱する。

 

 

59.『ソリティアおじさんがいたころ』

いきなり違う本の話になるが、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』には、死を身近に体験した者にしか見えないセストラルという馬が出てくる。ハリーもそれまでは見えていなかったけれど、死を身近に体験することで見えるようになるし、前から見えていたという友達の知らなかった一面、影を知る。

ハリー・ポッターシリーズにはそんなふうにいつも死の影がある。

 

死を身近に体験すると、今まで見えなかったものが見えてくるというのは魔法界だけに限らない。死をきっかけにそれまで知らなかった死んだ人の一面とか人生とか、自分の生とか人生とか、もっと抽象的な生とか死が否応にも見えてくる。

 

第175回芥川賞候補作、村司侑の『ソリティアおじさんがいたころ』は身近な死によって見えてきたものを書いた作品だ。

主人公の職場でソリティアおじさんと呼ばれていたかつての上司が死んだ。その上司は彼氏の師匠といってもいい人だけど、自分との関わりはそれほどなく、直接関わった思い出はひとつぐらい。あとは仕事中にソリティアをしていた姿しか記憶にないぐらいの人。

例えそんな微妙な距離感の人であっても、その死をきっかけにして初めて見えてくるものがある。

通夜に参加することで、ほぼソリティアおじさんとしか認識していなかった人の仕事以外の人間関係だったり家族のことが見えてきて、考えたこともなかったソリティアおじさんが仕事中にソリティアしかしなくなった過程に思いを馳せることによって彼の人生が浮かびあがる。誰かが死んだ途端にその人の生活や人生の存在感が増し、アディショナルタイムみたいに死んだ人が生き始める。死にはそうした作用がある。

 

ソリティアおじさんの通夜に参列した主人公は、「ソリティアおじさん」としての一面しか知らなかった人間の人生の奥行に触れたのだが、通夜の翌日風邪をひき会社を休む。そうすると今度は自分の人生の行き詰まりが浮かび上がってくる。会社の休み家でソリティアをすることによって。

ソリティアをやってみてもすぐに行き詰る。すぐにはクリアできない。それは自分の人生について考えざるを得ないきっかけでもあった。自分の人生の行き詰りを感じ取る。そうして彼女は恋人との別れを決意する。

 

要は、手詰まりになったら「もとに戻す」ボタンで巻き戻しましょうと、身も蓋もない。

 

もう戻れない。おなじやん。別れんでも、別れても。手詰まり。行き詰り。鼻詰まり。

 

ソリティアがきっかけで?そんな簡単に?と思うかもしれないが、それまでに積み重なっていた諸々があったのだろう。

彼は優しい。優しく看病もしてくれる。風邪をひくとものを考えられなくなるし、気が弱くなる。そんなタイミングで優しく看病してくれているのに、別れを切り出せるって案外すごい。逆にそれだけ「別れない」に傾きそうな状況でも「別れる」に振り切るほどの積み重ねがあったんだろう。

 

この主人公が多用する言葉に「知らんけど」がある。思考をある程度重ねても結局「知らんけど」で全部ちゃぶ台返しをしてしまう。あまり深くものごとを考えない。

手詰まりになったのもその「知らんけど」がひとつの要因なのではないか。彼女には「知らんけど」と「手詰まり」の間のグラデーションがない。「知らんけど」を繰り返し、知らないうちに手詰まりになっていた。「知らんけど」の積み重ねで深く考えずにずっとスルーしてきたことがソリティアおじさんの死をきっかけに押し寄せ、大きな壁として立ちはだかり行き詰ったのではないか。一個一個は小さなレンガだったかもしれないのに、いつのまにか袋小路の壁になり行き詰っていた。

知らんけど知らんけどを続けて他人事みたいに流してきて結果、いつのまにか袋小路の手詰まりになっていたのではないかと思うと、怖い。

 

ソリティアおじさんがいなかったら、ソリティアおじさんが死んでいなかったら行き詰まりに気づくこともなかっただろう。そうだったら一体どうなっていたのか。行き詰りでどこにもいけないまま息絶えていたのか。知らんけど。

 

 

 

Log18 絶対的相対主義

某月某日。

『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』を読む。

(がっつりネタバレするわけではないけど、ネタバレのような気もするので、読みたくない方は次の某月某日まで飛んでください)

 

ずっとハーマイオニーがハリーとロンに対して「男の子って!」となっていたけど、ここにきてハリーがチャンに対して「女の子って!」となり始めて、女子が「男の子って!」と思うタイミングと男子が「女の子って!」と思うタイミングには一年ぐらいの幅があり、それこそ女の子であり男の子だよなぁと愉快だった。

 

あと。ハリーの父親が。そういうやつだったんだっていう。

私は子供が大人になる瞬間というのは、親がただの人間だとわかる瞬間だと思っており、そういった意味でこれはハリーが大人になった証なのかもしれない。

ハリーは生まれた時から様々な苦労をしていて、大人への信頼度なんてもともとなかっただろうけど、やはりどこかで「親への幻想」は持っていただろうし、それが打ち破られ、親代わりとして頼っていたシリウスもいなくなってしまったし、あんなに完璧なダンブルドアにも欠点があることがわかったし、いよいよ大人への階段を登り終えたところなのか。

ハリーは15歳。『魔女の宅急便』によると14歳が独り立ちの時期らしいし、男の子だから1年遅れて15歳が独り立ちの時期ということだったりして。

 

 

 

某月某日。

石川明人『宗教を「信じる」とはどういうことか』を読む。

信仰があるといっても、信仰がある人たちだって一枚岩なわけじゃないし、絶対的な神を心から信じていたら幸せなわけでもないし、信仰心があれば誰もが善良なわけでもなく、宗教のせいで対立や侵略、戦争が起きたりする。

もちろん一枚岩の人もいるし、慈善活動で誰かも幸せにしたり、信仰心のお陰で心穏やかな人もいるけれど。

というようなことがずっと書いてあった。

 

年を取るにつれてだんだんと、「一概にはいえないよね」「人それぞれだよね」と思うことが増えてきていて、「臨機応変」が座右の銘になりそうなになってきている。

それってちょっと虚しい。絶対的な価値観を持っている人の方が芯があって自立的で成熟してみえる。そうなりたい。

「人それぞれ」というのは結局何も言っていないようで何が言いたいのか自分でもわからなくなることもしばしばだ。でもたったひとつ言えることがあるとしたら、それは「一概にはいえない」「人それぞれ」ということなのだ。相対主義が絶対的に正しいのだ。でもそれはやっぱりなんか違う。論理的にというより心情的に。

そんなふにゃふにゃな正しさではなく、一個でいいから小さくてもいいから、確固とした譲れない絶対的な正しさが欲しい。

 

 

 

 

某月某日。

文フリで買ったエッセイ本を読む。文フリにはもう5回ぐらい行っていて、その度に大量のエッセイや日記本を買って読んできたけど、ここにきてやっと「やっぱりプロのエッセイのが綺麗かも」と気づく。遅い。

綺麗というか、商業出版されているものの方が胸の奥までちゃんと届く気がする。まっすぐで洗練されてる分届きやすいのだろう。

それは書き手がプロだからというよりも、プロの手が入って修正されているからということでもありそう。

文フリの本を読んでいると、伝わるけど微妙に間違っている言葉とか、文章の構造が無駄に複雑だったりとか、そういうので突っかかってしまうことがある。あと、こういう言葉に素人っぽさが出るなという言葉(「個人的には〜」「〇〇という印象」)とか。

そのどれもが私もよく書いてしまうものだから、もっとしっかり修正して洗練された文章にしたい!と思うけど、それって文章のルッキズムみたいなことなんだろうか。

「綺麗であればあるほどいい」「文章はこうでなきゃいけない」なんて規範はないはずだが、やはり綺麗になりたいと思うのは人情で。でもどんな綺麗さを求めているのかわからない、はっきりとした理想像はない。

素人っぽさが輝く文章もあるけど、今更そこを目指すのは文章を書きすぎていて無理そうである。

とりあえず修正をしよう。文章の能力がない人に修正の能力があるのか疑問だけど、せめて修正はがんばろう。

 

 

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