本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記『野原』


昨日から読み始めたローベルト・ゼーダーラー『野原』がとてもいい。墓地のベンチに座って、死者の声を聞く男。その男が聞いている話として、その町に生きた29人それぞれの生前の生活や、人生のターニングポイントや、取るに足らない出来事だけど強固に記憶に刻まれている出来事、そんな日々の断片で人生の深淵が、短編小説や賞編小説のように語られる。

私は私の中にしかいられないし、私の人生に囚われているので、そこから逃げたくて、誰か他の人の人生を覗きたくなる。
自分ではない人の人生を覗いて追体験することは、自分と自分の人生からの解放で、そこで私はちょっと自由になれる。でもそこで、私の中にもあるような鬱屈や失望や疲労を感じたり、私自身の人生でも経験のある出来事が鮮やかに書かれていたりすると安心する。
自分に囚われていてそこから解放されて自由になりたかったはずなのに、誰か他の人の人生の中に、自分との共通点を見つけて安心するのだ。

自由と安心というのは相反するもので、どちらか一方を手にすればどちらかを諦めなければいけないものなのかもしれない。
だけどこの本の中では不思議と共生している。
だからとても居心地がいい。

 

 

 

 

読書日記『モヤモヤの日々』

僕は、「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」というものがこの世にあると思っている。いや、もしかしたら僕だけなのかもしれないが、「お、この作品すごく面白い」と思ったとしても、どこか自分のセンスに自信が持てず、「他に誰か褒めてるかな?」なんて検索してみたくなる。僕の思う「センスのいい人」が褒めていれば、「これは間違いない」と安心して紹介できる。僕もそれなりに本を読んでいるほうだとは思う。でも、ついつい他人の評価に依拠したいと思ってしまう弱さがあるのだ。

 

 

 

 

三宅香帆さんが光文社新書noteで連載している「失われた絶版本を求めて」の第3回と第4回で、「面白くない本を面白くないって言いづらくなってるよね」って話をしていて、確かに言いづらいよね自分の「面白くない」という感覚をなんか信用できないんだよねと思ったけど、宮崎智之さんの『モヤモヤの日々』を読んでいたら、宮崎さんは「面白い本を面白いって言いにくい」って話をしていた。

 

わたしは、「面白い!好き!」と思ったものは、後先考えることなく、褒めてしまうけど、「面白くない!嫌い!」と思ったものに関しては、そう言葉にすることを躊躇してしまう。

この違いは何かというと、自分の感じる「好き!」という感覚に絶大な信頼を寄せているけど、「嫌い!」という感覚には自信がない、というものだと思う。

 

「面白いなぁ好きだなぁ」と思ったら、他の誰が褒めてなくても褒めてしまう。むしろ誰も褒めてないものを褒めるのはパイオニアみたいで楽しい。それを否定する人がいたとしても、「わたしが良いと思うものは良い!」と謎の自信を発揮し、なんなら「この良さをわからないなんてもったいないなぁ」と偉そうにも思ってる。だから、それとは逆に「面白くないなぁ嫌いだなぁ」と思うものは、「わたしがこの作品の良さを見つけられてないだけかもしれない」と自信がなくなる。何かを面白がれるかどうか、良いと思えるかどうかって、感性の問題だけじゃなくて、知識とか教養とか目の付け所の良し悪し、審美眼が関わって来ると思っているから、だから「今のわたしにはこの作品を面白がれるだけの力量がないだけかも…」という留保でもって、「面白くない!」と言うことができない。

でもそれって、本当なら面白くもないものを、わたしの知識と教養がなくて目の付け所が悪く、審美眼がないから、「面白い!好き!」と思ってるだけかもしれないってことでもある。そんな疑いを持つことなく「面白い!好き!」と言ってしまうのはなんでなんだろう。浅はかなんだろうか。

そうやって考えだすとだんだんと「面白い!」とも「面白くない!」とも言いづらくなっていってしまう。

結局「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」は人によって「誰かが貶していなければ貶しにくい問題」になるだけで、根底は同じだ。

自分が自分だけの価値観を持って、作品を評価するなんてことが途方もなく難しいことにみえてくる。

 

うーん。でも改めて今まで自分がいい作品だと思ったものを思い出してみても、いい作品だったなぁ、と読んだ時観た時の感動が蘇ってくる。そう感じた自分の感覚を疑うことは難しい。

だから変な話、「面白くない!」と堂々と言ってみたい。そう感じた自分の感覚を信じて。でもやっぱり難しい。絶対どこかにはわたしの「面白くない!」はあるはずだと思うけれど。

 

 

自分は本当は面白くないと思っている本のことも、肯定してしまい、高評価をつけてしまうと、自分の審美眼を曇る。そうしているうちに、自分がどんな作品が好きで、面白いと思うのか、自分の輪郭がどんどん分からなくなってしまう。するとなんとなく世間や他人の評価に忖度するようになり、自分の欲望も嗜好も分からなくなるのではないか。

 

 

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『あの図書館の彼女たち』ジャネット・スケスリン・チャールズ

「わたしたちは本の友ね」彼女は、〝空は青い〟とか〝パリは世界一の街だ〟というような、確信のある口調で言った。わたしは心の友については懐疑的だが、本の友は信じることができた。

 

物語は、1939年パリ、オディールが図書館での仕事を得ようと、本の分類法を唱えながら面接へ向かうシーンから始まる。

デューイ十進法では図書館にある本全てを分類し、全ての本に数字を当てはめる。学校で習ったそんな知識を復習しつつ面接に向かった彼女だけれど、結局面接を有利に進め採用に至ったのはそんな知識だけでなく、何にも分類されない本への愛、どんな知識にも負けない本への信頼だった。

読み始めてすぐにこの物語のことを好きになった。冒頭だけでなく、この本はずっと本への愛と信頼が溢れていた。

 

オディールは「女性は家庭にいるべき」という父親の反対を押し切り、図書館で司書として働く。仕事をする働くということは、社会との接点を持ち、本の世界から飛び出し、現実を知るということでもある。

当然本に書かれているようにうまくいかないこともある、本で得た知識が役に立たないこともある。

だからといって本の価値が下がるわけではない。つらい現実に寄り添ってくれる本、忘れさせてくれる本、癒してくれる本がある。

 

オディールの人生がどんなに波乱でも、やがて戦争が始まり、彼女を取り巻く世界が大きく変わっていっても、彼女の中には、寛大な付添人として本がいた。

ナチス支配下のパリで人々に寄り添う本を守り、図書館に来ることができなくなった人々に危険を犯してでも本を届け続けた、オディールや同僚たちは、本の持つ力を誰よりも知っていたし、本を愛し信頼していた。

この物語は事実に基づいている部分も多くあり、オディールのような司書も実在していたようだ。

読めばさらに本への愛が深まるこの物語をたくさんの人に読んで欲しい。

 

「誰にでも、決定的に自分を変えた本というものがあります」わたしは言った。「自分が独りぼっちじゃないと教えてくれる本です。あなたの場合はなんですか?」

 

 

 

 

読書日記『革命的半ズボン主義宣言』

さて、世の中は減点法です。エリートの挫折でお分かりでしょうが、この減点法は”思い込みによる持ち点制度”が前提になっています。大学に入れば会社に行くのが当然。会社に入ればある程度以上の出世は当然。いい大学に入ればある程度以上の出世は当然。全部思い込みです。

 

橋本治『革命的半ズボン主義宣言』を読んだ。読もうと思ったきっかけは、内田樹小田嶋隆について書いた記事に、『革命的半ズボン主義宣言』が小田嶋を高く評価していたことと、この本の要約を書いていたのを読んで、面白そうと思ったからだ。

でも読んだ結果難しくてぼんやりとしかわからなくて、要約を読んだときの「面白そう!」というワクワクを超えることはなかった。難しい本を読んだ時あるあるすぎる。

 

橋本治の本は何冊か読んでいるけど、わかるときはわかって「面白い!」となるんだけど、結構あけすけだったり、アクロバティックな話の流れで、ややこしいように思えて実は単純な話なんだよ、といってるところばかり「面白い!」と思ってる気がする。だから、「本当か?」と疑ってしまう。頭の悪い私は、わかりやすい話に飛びついて、わかった気になって面白がってるだけなのでは?騙されてるのでは?と疑心暗鬼になるのだ。

 

でも上に引用した部分は心置き無く納得できる。

普通という標準点、当然という基準点があるから、そこに当てはまらない人達はどんどん減点されていくのだ。

みんな違ってみんないいとか、多様性だとかが叫ばれる世の中だけど、それはみんな「世の中は減点法」へのアンチテーゼなんだ。

やっぱり橋本治はみんながぐだぐだ言ったり、あーだこーだ言ってる中を、すごくシンプルにずばっとまとめるのがうまいんだろうな。

 

 

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読書日記『水中の哲学者たち』

昔見かけた目つきの悪い彼も、身軽に自身の考えを刷新していくサルトルも、ただ謙虚であるとか、自分の意見にこだわりがないとかではなく、自分の立場よりも真理をケアし、異なる考えを引き受けて、考えを発展していたのである。だからこそ、弁証法の場では、わたしは取るに足らないちっぽけな存在ではなく、真理に貢献するひととして扱われる。真理に近づくため、必要な存在となる。

 

哲学研究者永井玲衣によるエッセイ。面白かった。学者さんの書くエッセイって面白い。自分の研究と日常がいかに関係しているか書いてくれていて、わたしが普段感じていることや生活と通じるものがあるなぁと思えて面白い。

 

引用した部分は哲学的な会話をしていく上で自分の考えを恐れないで欲しいと永井さんの先生が言ったことについての部分。

「自分の立場より真理をケアして異なる立場を引き出し考えを発展させる」ってかっこよすぎないですか。自分の立場より真理をケアするんだけど、自分の存在はちっぽけなものではなく真理に近づくために必要な存在っていうとこも痺れる。

 

自分の真理を胸に抱くことは大事なことだけど、それはどこかに存在する世界の真理に比べたら小さいもので、間違ったものかもしれない。だから間違いを認めることや変わることを恐れずにいたい。自分が思う真理を大事にしつつ、他者や世界の真理の前では謙虚でいたい。自分なんてちっぽけなものだと知りつつ、真理に必要なちっぽけなのだと誇っていたい。

真理の前に謙虚でありつつ、自分を誇ることもできるような、そんなしなやかさが必要だ。

 

 

 

『プリズム』ソン・ウォンピョン

たいていの場合、始まりは違っても過程は似ていて、結果はいつも同じものだから。ジェインはそう軽く結論を出して、しばらく

日常の中に浸って過ごした。その時までは、人生に違う種類の波が立つなんて全く想像もできなかった。

 

『アーモンド』で2020年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞し、第2作の『三十の反撃』でも2022年の本屋大賞翻訳部門第1位を受賞したソン・ウォンピョンが大人の恋愛小説を書いたいうので思わず飛びついた。

『アーモンド』も良かったけど、『三十の反撃』はもっと良くて、だから期待大で読み始めたけど、やっぱり良かった。

内容がいいのはもちろん、文章が綺麗でうっとりしてしまう。形容詞の使い方というか物事を形容する筆致が美しくて鮮やかでちょっと切なくて好き。

 

内容は4人の男女の恋愛もので、作者としては現実だったらあまり仲良くなれなかったと思う4人だそうだけど、私としては、誰かと関係は持ちつつ絶妙な距離感でどこか冷めているジェインと、心にしっかりと鍵をかけて誰とも関係を築くことのないホゲに肩入れしつつ読んだ。

私も現実だったら仲良くなれるかどうかはわからないけど。でもジェインだったら、そこそこいい距離感で友達やれる気がする。

 

様々な経験をして、恋愛パターンもわかるようになって、いつもの恋愛パターンだからうまくいかないことを知ってても、結局いつもと同じことをして同じ結果になる。

 

いつものパターンだからどうせうまくいかないとわかっているから、それを変えようとあえて真逆をいってもうまくいかない。

 

いい加減自分のこともわかるようになって、自分はこういう人間なんだと思っていても、ふと自分の知らなかった自分に出会うこともあって、だけどそれで新しい世界が開けてうまくいくかと思えばそうでもない。

 

知ってても知らなくてもなんにもならない。経験なんて役に立たない。


経験を重ねれば重ねるだけ無意味な傷が増えるだけのようだ。ある程度経験を重ねてしまった大人の停滞期。

 

でも同じに見えても全く同じ恋なんてないし、全く同じ傷なんてない。

それは同じようなものを重ねて重ねてそれを繰り返さないと気づかないことでもあるけど。


たくさん傷ついても諦めず、同じように見えるでもひとつずつ違う沢山の経験を重ねた先で、ふっと見える新しい自分がいて、新しい出会いがある。

沢山傷ついて乗り越えて、同じような日々を繰り返し、時に停滞してそれでも日々を重ねた先にある変わったものと変わらないもの。
大人の恋愛小説だったけど、大人の成長物語でもあった。

 

ソン・ウォンピョンは『アーモンド』ばかりが注目されていて『三十の反撃』もこの『プリズム』は目立ってないけど、どれもいいのでもっと読まれて欲しい。

 

 

 

 

 

bookbookpassepartout.hatenablog.com

 

読書日記『韓国文学の中心にあるもの』

斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』を読み始めた。

斎藤さんは韓国文学ブームの火付け役となった『82年生まれキム・ジヨン』を訳された翻訳家さんだ。その後も次々に素晴らしい作品を訳し、たくさんの小説を日本に紹介してくれて、個人的には日本の韓国文学シーンになくてはならない神様みたいな人だと思う。

 

この本はその斎藤さんが、なぜ韓国文学が日本の人々にここまで受け入れられたのか、その魅力やそれが生まれる背景となった、韓国の歴史や社会情勢を丁寧に説明してくれている。

発売前から、韓国文学の神様みたいな斎藤さんが、そんな本を出してくれるなんて買うしかない!と楽しみにしていた。

 

第1章は「キム・ジヨンが私たちにくれたもの」という章タイトルで、『82年生まれ、キム・ジヨン』が生まれた背景と読者に与えた影響を丁寧に紐解いている。

 

斎藤さんが書いているところによると、『キム・ジヨン』はフェミニズム文学のベストセラーとなり、女性が今までに感じていた理不尽や悔しさを書いて共感を得ただけでなく、女性たちがそれまで気づかなかった差別を生む社会構造を指摘し、覚醒を促したという功績も大きいようだ。

 

著者が訴えたいのは、どんな家族に恵まれていても社会のシステムに問題がある限り、個人の性格や努力だけで解決はできないという点だからである。

 

二〇一八年に日本に降臨したキム・ジヨンは、何よりも「社会構造が差別を作り出している」「自分は、その構造によって規制を受けている、当事者そのものだ」という覚醒を、多くの読者にもたらした。

 

しかし、個人の努力が足りないんじゃない!社会の構造のせいだ!と覚醒させたのが『82年生まれ、キム・ジヨン』という物語ならば、社会のせいにするな!個人の努力があれば成功できる!と夢見させたのも物語じゃないのか。

 

世の中には今も昔もサクセスストーリーで溢れていて、どの時代でも一定の人気があって、そのどれもが主人公が努力を重ね、周囲に認められ評価され、成り上がって行くストーリーで、努力の素晴らしさを描いている。

主人公が様々な困難を乗り越えて成長し、成功していくストーリーは見るものに希望を与えてくれるし、自分も努力すれば夢が叶うのではないかという気持ちになって、勇気をもらえる。

 

でも勇気をもらって努力したところで、現実では主人公と同じようには成功できない。社会構造はそんな風にできていないのだ。

 

差別や不平等を生み出す社会構造は、サクセスストーリーには描かれていなくて、努力の素晴らしさだけ描くなんて、そりゃあ夢がある。

 

しかしサクセスストーリーの主人公たちはみんな、本当に自分の努力だけで成功していったのだろうか。大多数の人々が感情移入し、夢を抱くことができるような人物、特別なところのない平凡な人物なのだろうか。

 

よくよく考えてみると違うような気がしてくる…。

 

主人公には自分でも気づいてない才能があって、偶然の出会いで権力者にそれを見出され、努力が報われる場所に引き出してもらっていたりする。なにも才能がないとしても、特権階級にある人を偶然助けたことによって、努力が報われる舞台に立たせてもらったりするパターンもよくある。

努力が報われるという話ではあるけれど、自分の努力だけで成り上がっている訳ではない。ように思える。

 

サクセスストーリーの一種でもあるシンデレラストーリーのシンデレラにしたってそうだ。

ディズニーのアニメ映画『シンデレラ』でシンデレラは義姉と共に舞踏会に行くことを許され、ネズミや鳥と共にドレスを作る。忙しい家事の合間をぬって、知恵を絞って。しかしそのドレスも、舞踏会当日に、意地悪な義姉たちによってボロボロにされてしまう。そこで現れるのが魔法使いフェアリーゴッドマザーだ。フェアリーゴッドマザーの魔法によって新しいドレスを手に入れたシンデレラは、無事に舞踏会に出席しそこで王子に見初められ、ハッピーエンドを迎える。

 

もし義姉の意地悪がなかったとしたらどうなっていただろうか。シンデレラが自分の手作りドレスで王子と会っていたらどうなっていたのか考えずにはいられない。

映画だからファンタジーだから、魔法の描写があったほうがシーンが盛り上がるというのもわかるし、意地悪をされてシンデレラを酷い目に遭わせるのも物語のエッセンスとして大事なのはわかるけど、魔法を介在させずに、ネズミや鳥の助けを借りつつもシンデレラが自分の力で作り上げた王子にあっていたらどうなっていただろうか。

 

結局シンデレラ個人がどう頑張っても、どんな努力を重ねても無駄で、階級差は超えられないから魔法を介在させたのではないかと勘ぐってしまう。

 

そんな意図がないとしても、そう考えると、『シンデレラ』は非常にいい塩梅でできている夢物語だ。

シンデレラが自分の努力だけでのし上がって王子に見初められるのでは、あまりに夢物語すぎて「そんなことある?」という疑問が頭をよぎりそうだ。

魔法のドレスで王子に見初められるという完全な夢物語の方が、冷静に現実を省みることなく、でも程よく夢が見られるいい。

 

「個人の努力が足りないんじゃない社会の構造のせいだ!」といったって、それは本当のことなのかもしれないけど、私たちは「環境や人のせいにするな!努力すれば夢は叶う!」というサクセスストーリーばかり見せられてきた。

でもそのサクセスストーリーにもうっすらと、でもしっかりと差別を生み出す社会構造は描かれていたのだ。

恐ろしい。やり口が汚い。

 

韓国文学から、『82年生まれ、キム・ジヨン』からだいぶ話はそれてしまったけど、『韓国文学の中心にあるもの』を読んでいて、そんなことを考えた。

 

 

 

ディズニープリンセスについては他にも、過去のこの記事でムーランとアナ雪について書いています。

↓↓↓

bookbookpassepartout.hatenablog.com