本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

Log14押しつぶされる声搔き消される声

某月某日。

長濱ねる『たゆたう』を読む。

う、羨ましい。どうしたらこんなエッセイが書けるのだろう。エッセイ映えする特別なことだって起きるし、特になにもない日でも輝かせてしまう文章力と感性がある。羨ましい。

文章が上手いっていうことはもちろん大事なんだけど、エッセイはやはり感性がものをいう。

同じことを感じたことがあるはずなのに、私にはこんな文章が書けないなと思うのは、文章力のあるなしだけではなく、感性が浅いか深いかも関係がありそう。いつまでも鮮度を保っていられるかとかセンサーがより敏感かどうかも。

エッセイにこそ文章力と感性のきらめきが出るんだきっと。

 

しかし長濱ねるさんが書いても西加奈子さんは西加奈子さんである。西加奈子さんは誰に書かせても西加奈子さんすぎて、改めて西さんのすごさと溢れ出る人格を感じた。

 

某月某日。

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔女と暮らせば』を読む。

『クリストファーの魔法の旅』でもそうだったけど、血の繋がる親や兄弟の描き方がすごく冷めているのがすごい。温かい親子や支え合う兄弟というのは描かれないし、実はもらいっ子という展開でもないし、意地悪な家族を描いた後に「ざまぁ」な展開でカタルシスがあるわけでもない。冷たいだけ。

「家族に暖かさを期待するな、家族から受けた負の感情がいつか晴れるとも思うな」というメッセージを感じる。すごい。本当に児童文学か。でもこれに救われる子も確実にいる。夢を抱かせないという優しさがある。

 

某月某日。

はらだ有彩『「烈女」の一生』を読む。

トーベ・ヤンソンやマリー・キュリー、吉屋信子、ハンナ・アーレントら20人の人生が書かれた伝記集のようなエッセイ。

女たちの激しく劇的な人生がはらださんの熱く格好良い文章で書かれている。それははらださんが作り上げた物語のような気もして危険な感じもする。でもそれをしっかりと自覚した上での語り口でもあった。
語り継いでいくことは必要だけど、物語化する怖さもある。

女性の地位向上のためとか国家の繁栄のためとかではなく、ただ自分のために生きただけでも、「他人のためにその身を捧げた」物語にされたりするし、実際に利他的で周囲をエンパワメントしてたりする。それは書かれた方の喜びになるのか、それとも利用されているようで不快なのか。

 

某月某日。

ナヴァー・エブラーヒーミー『十六の言葉』を読んだ時に、大きな声にかき消されそうになっている声、正しいとされている声に押しつぶされそうになっている声を拾い上げるのが文学なのではと思った。

口を塞がれているけれど、大きな存在に対して感じている鬱屈や違和感がしっかりと伝わってくる作品だった。

政治や宗教という大きなくくりにくくられてしまって、ないものにされている人たちがいる。攻撃されている側にも攻撃している側にも戦争したくない人は絶対にいる。

そういう人たちと文学を通して繋がりたい。だけど反体制側にある文学がこれから先、私に届くことはないのかもしれない。出版されることも翻訳されることもないのかもしれない。

55.『友達じゃないかもしれない』

日記は読み返すと自分が他人みたいに感じるのが嫌だったけど、それなら過去の私を他人として自分ととことん話し合う交換日記みたいにしたら楽しいのでは?と、上坂あゆ美さんとひらりささんの往復書簡『友達じゃないかもしれない』を読んで思った。

日記を書くことで知らない自分と出会ったり、もう過去になってしまった自分を出会い直して語り合うことでしか出会えない自分がいそうだし。

 

私には2人みたいに腹を割って内臓を見せ合えるような人はなかなかいない。こちらが腹を割って話しても、相手が「難しい問題だね」「そうなんだ」としか返せないような内臓が出てくるだけ。たぶん私に付き合える人は私しかいない。

いや自分ですら付き合いかねている。最近このブログをZINEにまとめようとここ一年で書いた記事を読み返しているのだが、なんでこんなことを書いたのか、こんなことを考えていたのかと思うことが多い。どういう思考回路でなんでそんな感情が沸き上がってこんな文章になったんだ一体、と自分の文章を読んで思う。過去の自分と今の私は一体どういう関係なんだろう。同じ自分とは思えないけど、じゃあなんなんだろう。

 

『友達じゃないかもしれない』はお互い爆弾を投げ合って内臓を飛び散らせ、その内臓を品評しあっているような往復書簡だ。こう書くとずいぶんと物騒なことをしているようだけど、心理的安全を感じているからできることでもある。しかしその安全が崩れそうなギリギリを攻めているヒリヒリ感もある。

この人たちはほんとになんなんだろう。友達なのか。友達だとはいえないような気がするけど、友達だというならばそれは戦友というものに近いような気がする。味方同士ではなく敵対しているんだけどなぜか通じ合ってしまっている戦友みたいな。お互い投げつけられた爆弾を処理しあっているような。

 

私には2人みたいに自分の言葉という爆弾を投げられてそれを受け止め理解してくれるような人がいない、そんな爆弾処理班みたいなプロはいない、しかし私ですら私の言葉を処理できない。私は私に向けて爆弾を投げないで欲しいとすら思う。

花火のように遠くから眺めているのが、遠くから爆発しているのを眺めているのがちょうどいい。美しく楽しくみえる。一瞬にして消える言葉、どういうカラクリでそんなふうに打ち上がったのかわからない言葉。そんなものを作りたくて私は文章を書いていたのではないか。

しかしそれをZINEにしようとしているのは一体なぜだろう。

一瞬にして消えるはずの思いを書き残して埋めて、過去の遺物と化したそれを掘り起こして、ひとつのまとまりとして綺麗に整えて残そうとしている。これは過去の自分の考えや感情を整理して、「こういうことが言いたかったんだよね?」と返事をする作業なのだろうか。そう考えると私はこの本を読む前から自分との往復書簡を初めていたことになる。

自分との往復書簡はなかなか難航している。面倒くさい。量が多い。内容的にも読んでいて面倒くさいものが多い。でもそれをやることでしか掴めない何かがあるはずだと思ってやっている。一体何があるというのだろう。私は私と戦友になりたいのだろうか。

54.『嵐が丘』

10年近く前に読んだE・ブロンテ『嵐が丘』を、映画化きっかけに再読した。

なんか前に読んだ時より激しい。読むだけで体力を奪われる。こちらの体力が衰えているからなのか。

そして前読んだ時にはまだ存在していなかったであろう「メンヘラ」という単語が思い浮かぶ。登場人物たちのメンヘラ率の高さよ。みんな「こんな可哀想な私を見て!私を愛して!」といっている。

ChatGPTに『嵐が丘』を読んでいることを話したら「ヒースクリフは可哀想だと思うか?」と聞かれたけど、可哀想だとは思わなかった。可哀想だと思うような余白が彼にはない。そう思われたくはないのか可哀想だと思われたい時期をとっくに乗り越えて復讐に燃えているからなのか。

「同情の余地」はないという言葉は「自業自得」だという意味だと思うけど、ヒースクリフは何も悪くはない。自業自得といわれるようなことは何もやっていない。でも他者の同情を受け付けない感じ、憐れまれることを拒否している感じがする。だからそういった意味で同情の余地がない。

でも「こんな可哀想な私を見て!私を愛して!」とは叫んでいる。

メンヘラには自業自得型のメンヘラと他者の同情を撥ねつけるメンヘラがあるのだろうか。

 

ヒースクリフには同情しない、可哀想だと思わないけど、ヒースクリフの息子リントンは可哀想だ。

母1人子1人で暮らしていたところ、母が亡くなり、それまで母親から父親がいるということすら聞かされていなかったのに、その聞いたこともない父親に引き取られ、その父親がヒースクリフなのだから。可哀想だ。おまけに病弱。

ヒースクリフは「あいつは親切に飢えている」から優しくしてやってくれ」とキャシーに言って、キャシーとリントンを結びつけることで復讐を成し遂げようとする。

息子が親切に飢えていて病弱なことさえ、復讐達成への駒にする。

息子が親切に飢えていることは察してはいるけど、その飢えを無視し自分の復讐に利用する父親。そんな父親を持っていれば、優しく面倒を見てくれるキャシーのことを好きになってしまうし、キャシーが離れていかないように「こんな可哀想な私を見て!私を愛して!」と叫んでしまうのもわかる。そうしてまんまとヒースクリフは復讐を達成してしまう。リントンはやっぱり駒で、全てはヒースクリフの手の内にある。

リントンは同情の余地のあるメンヘラだ。

 

メンヘラたちは「こんな可哀想な私を見て!私を愛して!」というけど、ここでいう愛とはなんなんだろう。

可哀想な人を可哀想な人だと認識し、「酷いよね辛いよね」とよしよしすることなんだろうか。でもそれは同情の余地がある人が望んでいるもので、ある意味で同情の余地のないヒースクリフのような人は求めていないのではないか。ヒースクリフが求めていた愛とはどんなものだったのだろう。いやそもそもヒースクリフは愛を求めていたのだろうか。キャサリンと一緒にいられて名誉を回復できたらそれでよかったのでは。

でもヒースクリフとキャサリンが結婚できて夫婦になれたとて、二人とも性格が激しすぎて安穏として夫婦生活にはならなかった気がする。なんか二人とも浮気しそうだし。二人とも浮気して島尾敏夫の『死の棘』の両方妻バージョンみたいな夫婦になりそう。

Log13 わかり合えないという希望。

某月某日。

益田ミリ『かわいい見聞録』を読む。

ミリさんがかわいいと思うもの、しじみやメロンパンや毛玉の語源や歴史や思い出が書かれている。いつも読んでいるエッセイとは違って、新聞の片隅にあるちょっとしたお勉強コーナーみたい。

 

『日本語源広辞典』で「あやとり」の語源を引いてみた。

「語源は、『アヤ(綾・人知を越えた美しさ)+取り』です」人知を越えた美しさ、を指で取る、あるいは取り合う遊びとは、なんとも優雅な語源である。

『日本語語源辞典」で「綾」そのものも調べてみた。あや、は「あやかる」と同根であるらしい。すなわち、

「その物の性質や条理にあやかって自然に生ずる模様とか、いろどりをいう」のだそうだ。

 

私の中の希少な自分の好きなとこに、名前の字面と響きがある。その名前には「綾」という字もあるので、気持ちがぐわっと上向きになった。名付けた方は多分語源に関しては知らなかっただろうけど、やはりいい名前だ。

 

某月某日。

オスカー・ワイルドの「漁師と魂」を読んだ。
人魚の誘惑に負けて魂を切り離した漁師が、今度は魂に誘惑され、魂が語る長々とした話、冒険譚に基づく教訓を聞かされるんだけど拒み続けて人魚の元に戻る。だけど3度目の「あの街に可愛い踊り子いるよ?」という話を聞くと即、魂についていく。コメディなのかこれは。

「結局それかよ!」と全力で突っ込んでしまった。冒険譚と教訓を真面目に読んでたのに。ボケの前振りじゃないか。しかも漁師は3年目に聞いた話に出てくる踊り子に興味新々で「人魚には足ないから」という理由で魂についていく。3年目の浮気か。

 

某月某日。

大森望編『時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ』のリチャード・A・ルポフ「12:01PM」とソムトウ・スチャリトクル「しばし天の祝福より遠ざかり……」を読む。

どちらもタイムループもので、前者は自分だけ同じ1時間を繰り返すけど行動も言動も自由で、後者は世界中の人間が同じ1日を繰り返すが行動も言動も最初の1回目と変えられない。

だから後者の主人公は毎朝彼女と喧嘩をし平手打ちをし振られる。頭ではわかっているのに行動も言動も止めることができない。つらい。しかもこれが七百万年も続く。つらい。

 

SFは思考実験だというけど、2篇続けて読んだら、行動も言動も自由にならない1時間が七百万年繰り返されるとしたらどの1時間がいいかという思考実験が始まった。

私は1日の大半を本を読んで過ごすから、そういう時間を繰り返すことになりそうだ。

でも行動が選べないから同じ本を七百万年読むのは拷問過ぎる。やっぱり寝てる時にそうしたループが始まるのがいい。行動も言動も自由にならないのに頭の中だけ自由なのはやはり拷問だ。

中学生の頃、死ぬまで寝続けたいと思っていたことを思い出した。

 

某月某日。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』には〈与えることこそが喜び〉と書いていると書かれた本を読む。

私は「幸福な王子」のように与えることが喜びでそんな自分に酔えるような、ナルシシズムを持ち合わせていないので、与えた相手が私を舐めてきて、与えられてることが当たり前という態度だったらキレるけどな、と思う。

無償の愛とは結局ナルシシズムで、究極相手なんて誰でもでいいのでなはいか。

あるいは、相手のことを与えられたものに対してそれ相応のものを返せるような返済能力のある責任ある人間であると思ってないからこそ、その人を舐めてるからこそ、無償の愛を捧げるのかもしれない。

いや逆に自分のことはどうでも良くて、見返りなんてなくてもいい、自分はどうなってもいい舐められてもいいと思えるぐらい、自己評価が低くて自己愛がないからこそ犠牲にできるのかもしれない。

よくわからなくなってくる。自分を愛しつつ他人を愛するなんてことができるのだろうか。

『愛するということ』を再読したくなってきた。

 

某月某日。

「本棚を見られるのは裸を見られるようで恥ずかしい」と書いてある本を読む。

本棚を見られたところで何をどう思われたところで、それはきっと全部間違っているからいいかなと思う。私がどんな人間でどんな感情を抱いているかなんてわかる人間はこの世にいないのだ。

「何を見られても恥ずかしいところなんてない」というのはカッコつけでもあるし、他人に全く期待してない信用してない言葉だ。

私がここにこうして色々書けているのも、もしかしたらそういう所もあるのかもしれない。

わかって欲しくて書いている所もあるけど、わからなくても全然いいし、むしろ色々勝手に勘違いして欲しいなとも思う。その方が、私が思ったことを読んで、私が思ってもみなかったことを考えてくれた方が、嬉しいかもしれない。

わかりあうことをそれほど期待していない。

でも「絶対に他人には自分のことなんてわからない」ということだけは誰かとわかりあえるような気がしている。不思議だ。だけどそれだけが他者とわかり合える唯一の希望でもある。

野崎まど「アムリタシリーズ」を読む。

野崎まどさんの作品には『2』という作品があり、それは『[映]アムリタ』『舞面真面とお面の女』『死なない生徒殺人事件』『小説家の作り方』『パーフェクトフレンド』の5冊を読んでからの方がより楽しめるという作品らしい。私はそういうものに弱い。積み重ねて積み重ねてやっと到達できる楽しさとか境地とか、そういうのに弱い。

野崎さんの作品は『小説』しか読んだことがない。まだ好きな作家さんというわけではないので、いきなり6作品も読めるのかとちょっと不安だけど、『小説』面白かったし、まぁいけるだろうと、読み始めることにした。

 

 

『[映]アムリタ』

小説にしかできない映画の話だった。
天才だとか美だとか映像にすると、本当にそれが天才に見えるのか美しいと感じるのかは「人による」ということになってしまうけど、小説では誰もが認める天才や美を描ける。

言葉だから、それを読む側が思う天才や美を引き出せて、そのイメージを他の誰かと共有する必要はない。そのページを読んでいるたった1人の人間のイメージを喚起させればいいのだから。

だから小説という言葉を使う芸術は最強なのではと思えた。

 

ラノベっぽいノリはいっぱいあったけど、かろうじて読み流せる程のノリだったし、ツッコミが面白いから良かったというか助かったというかありがたかった。

ラノベっぽいノリと映画や天才が人に与える影響の重さのバランスが絶妙だった。

 

 

『舞面真面とお面の女』

1人でPDCAを回していると、最低も最高も全部予想通りで飽きてくる。
そんななんとなく予想がついている毎日で退屈している時にある少女と出会うという、ボーイミーツガールの話だった。

だけどガールに会って予想外なことがあっても、結局その先のハッピーエンドはありきたりで予想通りで、後々飽きてくるのでは退屈な日常があるだけなのではと思えてくる。
「どんでん返しで面白かった!」で終われる読者はしあわせなのかもしれない。どんでん返しが終わった後の予想通りのしあわせや予想通りの成功した人生に付き合う必要はない。

 

いや1人でPDCAを回しているからではなく、その人がめちゃくちゃ頭が良いから飽きてくるのかもしれない。むしろ誰かとやっている方が飽きる前に絶望してしまうかもしれない。

誰も自分の頭の回転の速さについてこれなくて、誰も同じ景色を見てくれない、同じことを考えられないというのは孤独なものだから。

だから誰でも良いから誰かと一緒にPDCAを回すのではなく、自分と対等なあるいは自分より頭の回転が速いガールと出会えたからこのボーイはハッピーになれたのだ。

誰よりも頭が良い人ってやっぱり誰よりも孤独だ。

 

 

『死なない生徒殺人事件』

「自分の知っていることしか教えられるない」というのはそりゃそうだろうけど、じゃあ何を「知っていること」とするのか。
人に教えられるぐらい整理できていて言葉にできていることを「知っている」というのだろう。
私はどれだけのことを知っているのだろう。

 

感情を人に伝えられる知にして、受け手はその知からその人の感情を理解してくれるんだろうけど、たまに知抜きで感情と感情のぶつけ合いをしてる人たちもいる。

しかしこの作品にでてくる永遠の命を持つ人間はそうした関係を他者と築くことは難しそうだ。全ての感情を感じ終わって知として知ってしまっているから。

永遠の命を持つ存在と永遠ではない命を持つ存在は対等ではありえない。この存在もまた、誰より頭が良い人と同じく誰よりも孤独だ。

 

 

『小説家の作り方』

目の前に無限の可能性が広がっているようにみえて、どれも間違いのようで一歩も動けない。
そういう時、一旦間違えてみようとするのも一つの手だ。間違えてみないと正解がわからない。間違いを重ねて初めて正解の方向が見えてくる。

だからトライ&サクセスではなく、トライ&エラーというのかもしれない。

前作までを踏まえると間違えることができるって、予想通りにはいかないって、すごくラッキーなんだなと思える。全部予想通りで正解を出し続けることよりも、飽きずに楽しめそう。

「正解はひとつだけ」とはいわないけど、正解より間違いの方が数が多くていっぱい間違える方が色々経験できて楽しいのではないか。

 

 

『パーフェクトフレンド』

論理の積み重ねでこのまま論理的な話で終わるのかと思わせて、その論理の山の上に非論理の悪魔的魅力を載せてきたー。
非論理の無限の可能性を論理で押し切られた感じがしてなんかすごい。

 

ここでも周囲より賢い人の孤独が書かれていて、初めて対等に話せる人ができて嬉しいと感じる人がでてくる。

でも「初めて対等に話せる人ができた!」と思っても、その相手は対等なのではなくて自分より頭が良い人で、自分より頭が良い人に初めて出会っただけだったりする。自分より頭が良い人だからこそ、こちらの目線に合わせてくれているだけなのだ。だからこちらは対等だと思っていても、向こうは対等だと思っておらず、物足りなさや孤独を感じているかもしれない。


野崎さんの理系の使い方ってSF過ぎずミステリ過ぎず好きだ。

私が初めて読んだ野崎まど作品は『小説』で、それしか読んだことはなくて、小説とはなにかという疑問に理系的に答えを出した作品だなと思っていたけど、『小説』以外の作品でも割とどれも論理で理系な考えを積み重ねていた。

 

 

『2』

あなたは私ではないから、私じゃない人だからあなたには無限の可能性があって、私ではないあなたはそれだけで魅力がある。
だからってなんでもしていいわけじゃないんだけど。なにかしてくれるはずだと全ての期待を乗せていいわけじゃないんだけど。

アムリタシリーズはずっと「創作とはなにか?」を書いてきたと思うんだけど、ここにきて最後にきて、創作者のエゴが大爆発していてエグかった。ここまで傍若無人でグロテスクな人みたことないというか。創作物史上1番のエゴイストがいた。

自分が作ったものを上手く手懐けている分、怪物をつくりだしたフランケンシュタイン博士よりもグロテスクかもしれない。

フランケンシュタイン博士は自分が作り出したものを放り出してあとは責任を取らないけれど、ここでの創作者は自分の孤独と欲望の範囲内でずっと創作物を飼い慣らしている感じがする。創作物に自由を与えない。作ったものを野に放って責任を持たないのもエゴイステイックだけど、創作物を自分のエゴの中で飼い殺しするようなことをエゴがすごい。

 

でもこのシリーズではずっと、誰よりも頭が良い人間の孤独とか、誰とも対等な関係を築けない永遠の命を持つ人間とかを書いてきて、その積み重ねの上に書かれているから、天才的な創作者にも同情の余地が生まれてしまっていて、よくわからないけどそういうものなのかなぁとか思わせられて、ちょっとずるい。

私的にはそれは非論理的であり得なくてエゴにしかみえないんだけど、それさえも「論理の上に積み重ねらた非論理の素晴らしさ」も前作で書かれているし。非論理的なエゴが作り出す創作物の素晴らしさなのかこれは、とも思わされる。

なんかなんかずるい。

「創作とはなにか」が書かれているシリーズだと聞いて読み始めたけど、「対等な関係とは可能なのか」をずっと書いているシリーズだった。

53.『源氏物語 巻七』

柏木

柏木が亡くなり、女三の宮が出産する帖。

 

朱雀院は後見がない女三の宮が心配で光源氏に嫁がせたけど、結局子供を産んですぐに女三の宮は出家してしまう。しかもその儀式を取り行ったのが先に出家した朱雀院自身が行うのが切ない。

それに加え、柏木と結婚したから後見については安心していた女三の宮の姉、女二の宮は柏木が死んでしまい一転不安定な状態に。朱雀院の親心は報われない…。

 

夕霧がこんな風に亡き友柏木の未亡人女二の宮を心配するのもわかる。

 

「こちらの女二の宮こそ、噂に聞いていたよりは、奥ゆかしいお方のようだ。何とお可哀そうに。皇女の身で外聞の悪い御降嫁をなさり、その夫にも先立たれた上、世間のもの笑いになることまで気に病まれていらっしゃるのだろう」

 

柏木の亡き後割とすぐに女二の宮に言い寄る夕霧に引いていたけど、女二の宮の後見問題を考えると悪い話じゃないんだろうか。夕霧は柏木から臨終の際に女二の宮のことを託されているし。

いやでも夕霧は女二の宮の今後が心配というよりも下心で言い寄っているんだろうけど。

 

 

横笛

タイトルの横笛が大きな役割を果たす帖だけど、その前段階として琴もなかなかいい役割をしている。

柏木の妻女二の宮の家を見舞った夕霧は柏木の琴を引き、今度は「柏木が弾いた音色が残っているかもしれないから、弾いてみて」と女二の宮にも弾かせようとする。なんとかして女二の宮とコミュニケーションが取りたいのだ。これは柏木の音色が残る琴が二人の間を取りもち、柏木が二人の間を取り持つという展開か?と思わせる。

だがしかし、琴を渡された女二の宮が弾いたのは想夫恋。彼女の想いはまだ亡き夫にあるという現れでもあるし、柏木の音色思いが残った琴が女二の宮に想夫恋を弾かせたとしたらこれは「臨終の際に妻のことは頼んだけど、手は出すなよ?」という柏木からのメッセージかもしれない。

 

琴は女二の宮を夕霧をつなぐキューピッドにはならなかった。その代わり女二の宮の母から託された横笛は後に、柏木と女三の宮にできた不義の子、薫と柏木の親子の縁をつなぐアイテムになる。

 

 

鈴虫

女三の宮が尼になり、仏像を作ったので開眼供養が催されることになる。

その準備を手伝った光源氏はまだまだ女三の宮に未練があり、その裏切りを根に持っているようで、「せめて後の世では、同じ蓮の上に宿って、仲よく暮らせるようにとお思いください」などと声をかける。それを受けて女三の宮は「本気でそんなこと思ってないくせに」的なことを言って軽くあしらうのが、なんだが切ない。あれだけうぶでなにもわからない少女であった彼女が今や光源氏の本性を知り軽くあしらう技術まで身につけてしまったと考えると切ない。

 

朱雀院は女三の宮はもう出家したし、別居した方がいいのではと光源氏にいうが、「離れ離れに住んでいては心配だし、これからもお世話は続ける」と返す。

 

女三の宮の気持ちも朱雀院と同じで、光源氏との縁を断ち来るつもりで出家したのに。

 

夕霧

落葉の宮の母の最後が辛すぎる。夫を亡くした後の娘の面倒を、夕霧が見てくれるのかくれないのかわからないまま、夕霧からの返事を待っている間に死んでしまう。

亡き夫の柏木も女三の宮に夢中になっていたし、その後に近寄ってきた夕霧には本妻の雲居の雁がいるしで、娘の男運の無さを嘆く母。嘆きながら死にゆくのを見守る落葉の宮も辛い。

 

落葉の宮の母は夕霧の前に化けてでてもいいし、落葉の宮は生き霊となって現れても良いのではないか。母娘揃って出てこられてビビる夕霧をちょっと見てみたい。

 

 

御法

紫の上がついに臨終を迎える。

源氏と明石の中宮と対面する場面で、紫の上は自分が先に死んだら源氏はどんなに心乱し嘆くだろうと悲しみ、その悲しみを和歌にして詠む。

源氏も明石の中宮もそれに応えて和歌を詠むのだけど、そうして身近な誰かが迎えようとしている死について話せるのっていいな。

現代でも死について話すのはタブーとされているというか、重過ぎて怖くてなかなかできないものだ。

和歌っていう定型がある言葉にしてちょっとかしこまった形にすること、逆にちょっとふざけて笑いを加えて話すこと、そした今いる自分の地平からずらすことで話やすくなる。

そうしてレイヤーを変えるから心情を吐露できる。

 

和歌ってものがあったからこそ、平安時代の人は気持ちの交換が今よりできていたのかもしれないなぁと思うと、平安時代の人がちょっと羨ましい。

今、和歌の役割を果たすものはなんだろう。スタンプとか絵文字かなぁ。でもスタンプでは安易すぎる。創作性がない。でも和歌も本歌取りといって、もともとある和歌を真似したいるものもあるしな。

先人の和歌のエッセンスも自分の感情も創作も言葉に載せられる和歌というのがやっぱり羨ましい。

 

紫の上が亡くなった後に「かわいそうなことをしたなぁ」などと後悔する源氏。

失って初めてその人の存在がどれだけ大切だったか思い知らされて後悔するという心情はわかるけど、だったらなんでもっと大事にしてあげなかったんだ!と思ってしまうのも人情。

源氏物語がなんでこんなに面白いのかっていうと、光源氏に、なんなんだお前は!とキレるのも面白さのひとつなんじゃないか。

自分には理解できない思考回路だとか倫理観を持ち合わせているけど、同情の余地はあり共感もするんだけど、クズだな!と思う時もあり振り回される。

 

この帖では紫の上を亡くした光源氏の悲しみが切々と書かれていくのだけど、中盤になって、女房の中将の君を軽口を叩く。「なつかしいそなただけはまた摘んで罪を犯しそうな」と詠ったりする。その姿に、元気でてきた?良かったと思うと同時に、なんなんだお前は!とも思う。

 

雲隠

帖の名前だけ残っていて中身はない。ただ帖の名前で、光源氏の死を現しているらしい。

源氏は死の間際なにを思ったのだろう。それを書かないのはなんだかずるいような気もするけど、書かずに想像に任せるところが粋。

 

匂宮

女三の宮は、光源氏と結婚した頃と比べたら、大人になったし経験も踏まえて成長したのかもしれないけど、やっぱり「しっかりしてくれ!」と思ってしまう。

息子の薫も、女三の宮を自分の子供のように気にかけている。

薫は母親が若くして出家したことを訳アリだと感じていて、それが自分の出生と関係あることも感じていて、だけどそれを母に聞いたら悩ませることになるから何も聞けずにいる。

可哀想だ。

夕霧や明石の宮、今上帝がなにかと気にかけてくれるけど、でもやっぱり実の親が頼りなくて出生に暗い影を見出してしまうというのは背負うものが重いだろう。

「匂宮」という帖の名前なのに、匂宮より薫のエピソードが濃くて薫のことばかり考えてしまう。

なんで匂宮が帖の名前になっているのかというと、どうやらこの帖で絵巻として描かれるのが、夕霧と匂宮が賭弓というゲームで勝った後、宴をしに夕霧の家に向かうシーンが多いからっぽい。

話としては割とメインで薫が書かれているのに、映えるのは匂宮だったというのがどうにも薫と匂宮っぽくて、やっぱり薫が哀れだ。

 

 

シェア型書店を考える

この間ジュンク堂大阪本店に行った。大阪に行ったついでに文言評論家三宅香帆さんのYouTube「三宅がゆく」で訪れていた書店へ聖地巡礼をしたのだ。

 

↓↓三宅書店 YouTube↓↓

- YouTube

 

三宅さんのYouTubeが撮られた時から結構時間経ってからの聖地巡礼だったけど、それでも一年以内なのに結構様変わりしていて、ちょっと寂しかった。

ミャクミャクグッズコーナーがあったりシェア型書店があったり文房具コーナーができていて、棚が大分減っていた。

そしてシェア型書店があるということは小耳に挟んでいたけど、衝撃を受けるぐらい大規模だった。一体どれだけの本棚が潰されてどんな本がどけられたのか…とちょっと悲しくなった。

 

シェア型書店というのは、月額料金を払えば本棚の一部を借りられて自分の好きな本を並べることができるというシステムだ。

神保町にあるPASSAGE by ALL REVIEWSや、ほんまるが有名だろう。一店舗まるまるシェア型書店もあるし、古書店の一角でやっているところもある。

だけど、チェーン店で大型書店でやっているというのは初めて聞いた。てっきり古書店の一角でやっているような小規模スペースでささやかにやっているものだと思い込んでいたので、結構でかい壁三面くらいにわたっていて衝撃を受けて、衝撃を受けたことに戸惑った。

一体この衝撃はなんなのか。なんでこんなにがっがりしてちょっと怒りすら感じているのか。

 

今までシェア型書店に対してそんな感情を抱いたことがなかったことから思うに、大型書店というところがポイントなんだろう。古書店の一角でもなく、中くらいの規模でのシェア型書店でもなく、大型書店でいくつもの本棚を潰してそこでシェア型書店をやっていることに衝撃を受けたのだ、たぶん。

 

さらに考えを進めてみると、私はどうやら、大型書店には読者を啓蒙するような棚を作って欲しいと思っていたらしいことに気づいた。

その分野の専門的知識を持つ人が選書をしていて、入門レベルから高度で難解なレベルまで幅広い本を揃えてくれていて、世の中にはこんな分野があるんだ!と思わせて欲しい。そういう初心者が読む本と上級者が読む本でハシゴになっているかのような棚を作って欲しい。

上級者のための専門的な本なんてあまり売れないかもしれないけど、売れない本でも大型書店なら置いておくことができるのではないか。儲けにはならないけど、それってすごく意味のあることなのではないか。知の最高峰を棚で教えてくれているというのは。

 

だけど時代の流れはそういうことではないらしい。本は売れなくなっているし、啓蒙してくれる存在ではなく、隣にいてわかりやすく教養を提示してくれる本が売れるらしい。それこそ書店の棚を見ているとそう感じる。時代は上から目線ではなく横から目線なのだ。

上からの選書(啓蒙)ではなく、横からの選書の方が本は売れるし、そっちの方が書店は活気付きそうだ。

 

シェア型本棚もその横から目線の一種だろう。SNSのタイムラインに誰かが読んだ本が流れてくるのと同じで、棚主が選んだ本が並ぶ三次元のタイムラインなんだろう。

SNSの画面上では上から流れてくる情報だけど、やってることとしては右から左へ流れていく本の情報の中で気になるものをピックアップしていく作業だ。私が大型書店に求めるハシゴとはちょっと違う。

 

それはそれですごい現代的で良いんだけれども、大型書店ってそれで良いんだっけ。もっと他にできることないんだっけとか考えてしまう。

やっぱり大型書店には、売れない本を置いて欲しい。みんなが手に取る本ではないけど、世の中にはこういう本があって、こういうことを研究してる人がいるんだと教えてくれるような。

 

握手会商法のアイドルの楽曲がオリコンの一位になって、「売れればいいのか!売れるのって大事だよね…」といっていたサザンの桑田を思い出す。まさか彼と同じ気持ちになる日が来ようとは。

 

そう、本が売れない時代である。書店が相次いで閉店する時代である。だから売ることが大事である。ミャクミャクグッズだろうが文房具だろうが売って利益を生むことが大事なのである。シェア型書店をやろうがなんだろうが、とにかくその場に存在し続けるということが大事なのである。

だから、シェア型本棚をしてまで生き残ろうとしてくれてありがとうございます!私も借ります!と言うべきなのかもしれない。

それが読者として書店を支える行為で貢献の形になるのかもしれない。買い支えならぬ借り支えである。

でも本当にそんなことを言わなきゃいけない日が来るとしたら泣いてしまうかもしれない。

 

でも大前提として本が売れない中潰れずに残ってくれているということを最優先にするべきで、書棚を潰してまで生き残れってくれてること自体がありがたい。しかしガワだけ生き残って中身はそれでほんとにいいのか…。でも生き残り続けないことには…。ガワがなければ…

書店が潰れれば一冊も本は売れない……。

 

心理学でよくいうことに「怒りからの受容」がある。

この記事は「それが大型書店のやることなのか!(ぷんぷん)」という怒りから、「それが大型書店のやることなのか…(しょんぼり)」と受容するまでの話である。