【ネタバレ】『方舟』夕木春央
だいぶ遅ればせながら『方舟』を読んだ。
話題作の移り変わりが早いTwitterにおいては遥か昔にバズりにバズった本である。
「どんでん返し!」「とにかくオチがすごい!」「ネタバレされる前に読んで!」という感想に惹かれて読み、確かに衝撃の結末でネタバレ踏む前に読んで欲しくなるのは最もなんだけど、それより何よりオチの衝撃が去った後にも未だ根強く残る深い衝撃は、この小説が「愛されないもののデスゲーム」「選ばれないものの生存戦略」であったこと、旧約聖書「ノアの方舟」の強烈なアンチテーゼだったことである。
ここから本格的にネタバレします↓↓↓
まず『方舟』のネタバレを含んだあらすじをまとめる。
1人の命を犠牲にすれば後の9人は命が助かるという密室空間、通称方舟で殺人事件が起こり、犯人がその犠牲になることに。そして犯人探しが始まるのだが、実は犯人しか知らない事実があった。それはこの密室空間を抜け出せるのは1人(さらにいうと2人)だけだということ。だから犯人は殺人を犯したのだ。自分が犠牲者に選ばれ1人生き残るために。
その犯人というのは主人公柊一の大学時代の友人麻衣である。
その麻依は大学卒業間近に交際を始め、卒業後すぐに結婚した隆平という夫がいるが、夫婦仲は上手くいっていない。そして夫婦間の悩みを相談していた柊一となんだか怪しい感じになっている。
その今にも付き合いそうな麻依と柊一が2人きりの時に話したことが、「愛されないもののデスゲーム」というフレーズの元になっている。
ここで麻依が話したこと全部、私が前から思っていたことで、「私以外にもこんなこと考えてた人がいたんだ!」と感動したシーンなので、ちょっと長いが引用したい。
「映画でもあるよね。殺されそうな人が、自分には恋人がいるとか、家族がいるとかって命乞いするシーン。家族とか恋人がいなかったら殺していいのかって話だよね。世の中、みんなに人権があるっていったって、その中から誰か犠牲者を選ぶってなったら、一番愛されてない人が選ばれるんでしょ?
それってもう、デスゲームみたいなものだと思うな。知恵が劣る人とか、体力が劣る人が脱落するデスゲームがあるでしょ?愛されてない人が死ななきゃいけないのって、それと同じくらい残酷なんじゃないかな。
あとさ、防災のキャンペーンとかで、『あなたの大切な人をまもるために』とかっていうの、よく聞くでしょ?しかもそれを、世界の人全員に大切な人がいると思い込んでるみたいに連呼するよね」
ここで麻依が言っていることが「全然わからない」という人はとても幸福な人だと思う。わかる人は不幸だというわけではないけど。
私は不幸ではないがしかし、麻依の言っていることがめちゃくちゃわかる。
家族が居て愛する人がいる、居なくなったら悲しむ人がいる。そんな人から生け贄リストから除外されていくのなら、私は結構後の方に残るだろう。
あともっと言えば、「私には愛する家族がいる!」という命乞いとして説得力があるが、「私には愛する友人がいる!」「愛するペットがいる!」ならどうだろう。「愛する〇〇」が命乞いとして有効に活用されるのは、「家族」だけで、その他は一蹴されるだろう。
結局「家族」なのだ。
更にもっと言えば、「愛するものもなく、愛されることもない」人間は….。
結局「愛」なのだ。
犯人である麻依も最初から1人で生き残る覚悟を持って殺人を繰り返していたわけではなく、最後まで「愛し愛される関係」を求めていた。
隆平との関係に見切りをつけ、柊一に擦り寄ったり「愛されないもののデスゲーム」の話をして気を惹こうとしたり。
彼女は愛されたかったのだ。愛されて生き残る道を探っていたのだ。
麻依の犯行が暴かれた後、麻依以外の人間からしたら麻依だけ死に他の全員が生き残る選択、麻依からしたら麻依だけが生き残り他の全員が死ぬ選択がなされる。
ここで実は、麻依の他にもう1人生き残れることが柊一に明かされる。柊一は麻依と一緒に死ぬことを選択すれば麻依と一緒に2人だけで生き残れたのだ。
しかしそれを麻依から聞かされたのは、もう後戻りできない状況、麻依以外の全員が死ぬしかない状況でだった。
このことからわかることは、「一緒に死んでくれる=愛されてる」というのが麻依の価値観だったということだ。
かなり究極の愛の形である。
しかし、一緒に死んでくれる人はいなかった。
この極限状態の中、一緒に死のうとしない人、麻依を愛さなかった人、その全員に訪れたのは死だ。
みんな麻依を愛さなかったから死んだ。麻依だけが生き残った。柊一に、私を愛さなかったからあなたは死ぬんだよというメッセージを残して。
これが「愛されないもののデスゲーム」だ。
自分を愛さない人間にこれだけの復讐劇を施しておいて、自分は誰にも愛されないまま1人生き残るエンド。
神話の方舟では、動物のつがいとノアの家族だけが方舟に乗り生き残るが、この『方舟』では誰ともつがわず家族にならず、誰からも愛されずして1人で方舟から脱出し生き残るのだ。
家族信仰に強烈なカウンターを喰らわせる、この話の終わり方にめちゃくちゃかっこいいな!と私は震えてしまった。
ダークすぎる。だがそのダークがかっこいい。麻依は私のダークヒーローだ。
『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しか出てこない』三宅香帆
「しょひょうか」と聞いて脳内で「書評家」と変換できる人はどれくらいだろう。本好きなら変換できるかもしれない。いや本好きでも、できない人もそれなりにいるだろう。そんなメジャーとはいえない書評、それを書く書評家だけど、私には好きな書評家、推し書評家が何人かいる。
瀧井朝世さん倉本さおりさん渡辺祐真さん等々、この人が書評書いてたらついつい読んでしまう人がいるけれど、中でも最推しと言っていいくらいの人、デビューからずっと追っかけているのは三宅香帆さんだ。
三宅さんは書評家だけど、大学院で万葉集の研究もしていたので古典に関する本も出しているし、本の批評だけでなく漫画や映画の批評をされているのでそれをまとめた本もあるし、本好きとして本と共に生きる日々を綴ったエッセイもある。
書評家として推しているんだけど、書評以外も余裕で面白い。
そんな三宅さんが『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しか出てこない 自分の言葉でつくるオタク文章術』(以下『推しやば』)というタイトルの本を出すと知った時は、「推しが推し語り技術の本出すなんて興味しかないぞ!」と興奮した。
それにこの本で著書10冊目になるそう。すごい!10冊全部持ってる!と、これもまた興奮。著作だけでなく、三宅さんが書評で取り上げた本や解説書いた本や寄稿してる本などなども入れたら10冊どころではすまない。これを推しと言わずになんと言う。
今回はそんな記念すべき10冊目『推しやば』とわたしの推しについて書いていきます。
『推しやば』はそのタイトル通り、推しについて語りたい布教したい、でも「やばい!」しか出てこないという人に向けた、自分の感想を言葉にするちょっとしたコツを教えてくれる本だ。
そのちょっとしたコツというのは、まず言語化する手段としてのコツと、その言語化したものを伝わる文章にするコツの2種類に分かれている。
言語化する手段としてのコツは、自分だけの感情を大切にすること、感情を元に色々と妄想してみること、よかったところを細かく具体的に細分化すること等々、色々ある。
色んなコツを教えてくれているけれど、なかでもわたしが頭に叩き込みたい!と思ったものは、言葉にできたあとのコツ、伝わる文章にするためのコツだ。
それは「想定読者を決めること」「想定読者と推しとの距離を測ること」「自分じゃない他人との距離を詰めるための手段=伝わる文章にするための工夫」というもの。
文章を独りよがりなものにしないため、自己満足で終わらせないで読んでもらえるもの、伝えるものにするためには、正にこのコツは必須で、だけどわたしはそれができていない。難しい…。まず一番最初の想定読者を決めることすらままならない…。
しかし当たり前だけど三宅さんはそのコツを全部使いこなしている。『推しやば』は、だから三宅さんの書くものはこんなに面白いのか!と発見があった本でもある。
先ほど少し触れたけど、三宅さんは万葉集を研究していたので、古典に関しても造詣が深い人だ。
わたしは今まで古典は和歌ぐらいしか興味がなかったけど、それが今では枕草子や源氏物語好きになり、定子と清少納言の主従関係に萌え、漫画『あさきゆめみし』を読破して光源氏を殴りたくなり、来年の紫式部を主役にした大河ドラマ『光る君へ』に向けての予習重ねる日々である。
それもこれも、三宅香帆さんの古典推し、推し語りのお陰。
その推し語りの手腕には『推しやば』にある「想定読者を決めること」「想定読者と推しとの距離を測ること」「自分じゃない他人との距離を詰めるための手段=伝わる文章にするための工夫」の3つが存分に発揮されている。
三宅さんが『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』や『妄想とツッコミでよむ万葉集』で想定している読者は、授業の古文で古典に触れたことがあるぐらいで全然詳しくない、古典に高尚で小難しくてお堅いイメージを持つ古典初心者だろう。対して三宅さんは大学院で研究もしていたくらいの上級者。そこには大きな隔たりがある。
ではその距離を埋めるための工夫とは何か。
それは『枕草子』を日本最古のファンブログと称したり、『源氏物語』を百合もBLもありのハーレム絵巻と称したり、『万葉集』をTwitterやインスタLINEに例えたりすることだ。
こうして馴染みのあるものに置き換えられたり、現代のものに例えられたりするするとグッと距離が近くなる。距離が近くなるけれど、置き換えられたものと古典のイメージのギャップで興味も湧いてくる。そしてわたしは古典にハマる。
しかし古典に興味が湧いたのはそうしたコツの力だけではなく、三宅さんの親しみある文体の力も大いにある。
三宅さんは上級者だけあって、古典との距離が近い。しかしただ詳しいとか知識があるとかそういう距離の近さだけでなく、親しんでいる。古典と仲がいい、という感じの近しさで、その古典との距離が近いまま、読み手に近づいてくれるので、三宅さんの著作を読む方も古典と近しくなれる。
友達に友達を紹介してもらっているような感じ、それが三宅さんの持つ文体の力だと思う。だから読み手も授業で触れた古典とは違ったやり方で、古典と触れることができるのだ。
古典だけでなく、三宅さんが書評している本は読みたくなるものばかり。『推しやば』にも「書評家って、常に推しの本を見つけ、それについて書く仕事」と書かれている通り、書評も一つの推し語り。
そんないつも魅力的な推し語りをしている人が推し語りの技術を教えてくれるこの『推しやば』並びにその著者を、わたしは推したい。
三宅さんの推し古典語り推し本語りのお陰で、古典好きになったように好きな本が増えたように、誰かが自分の推しを語れば、他の誰かの推しを新たに増やすことになって、その人の生活に彩りを一つ増やすことになるかもしれない。
だから推しがいる人推し作品がある人には、「やばい!」だけじゃ伝わらない、推しの素晴らしさをもっと語って欲しい。それは布教という側面だけでなく、自分の気持ちと向き合うことになり、自分のことを知る機会にもなるから。
だからその手助けをしてくれる『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない!』を推しがいる全ての人に読んで欲しい。
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読書日記「謝肉祭(Carnaval)」
あいも変わらず村上春樹のことを考えている。
今日は『一人称単数』の中の「謝肉祭(Carnaval)」に出てくる男に対して物申したい。
この「謝肉祭(Carnaval)」という短編、「彼女は、これまで僕が知り合った中でもっとも醜い女性だったーーというのはおそらく公正な表現ではないだろう。彼女より醜い容貌を持つ女性は、実際には他にたくさんいたはずだから。」という書き出しだけでもう胸のざわざわが収まらない。
語り手の男は大学生の時にダブルデートをしたのだが、相手側の女の1人が「醜いとまでは言わないけれど、あまり容姿がぱっとしない女の子」だった。ダブルデートの途中で1組ずつに分かれて、普通のデートをすることになり、語り手の男はその容姿がぱっとしない女の子と公園を散歩して喫茶店でコーヒーを飲んだ。
後日語り手をダブルデートに誘ったもう一人の男に「このあいだは、あんなブスな女の子を連れてきて悪かったな」と謝られる。それを聞いた語り手が考えたこと、しようとしたことがひどい。
友人にそのように謝られたあと、彼女に電話してみなくてはと僕は思った。彼女はたしかにきれいな女の子ではなかった。でもただのブスな女の子でもなかった。その間にはちょっとした違いがある。そしてそういう違いを僕はそのままにしておきたくなかった。それは僕にとっては、どう言えばいいのだろう。けっこう大事な問題だった。気持ちの問題だ。彼女を恋人にすることはないかもしれない。たぶんないだろう。でももう一度会って話をしてもいい。どんな話をすればいいのかわからないが、何か話せることはあるはずだ。彼女をただのブスな女の子にしておかないためだけにも。
おい。やめろ。やめておけ!!
ただのブスな女の子にしておかないためなら、「ブスな女の子連れてきてごめん」と言ってきた友人に「いやいい子だったよ」とでも言えばよくないですか。それをなぜわざわざ女の子に電話をする必要が?「いい子だったよ」と友人に言えないっていうのは、友人に「お前あんなブスのこと気に入ったのww」と思われたくないからだよね。100歩譲って、女の子が自分のことを「私はブスだから…」と言ってたならその子に電話して「ただのブスじゃないよ」と言うのならわかるけどその女の子は別にそんなこと言ってないし。いや言ってたとしても、それでも余計なお世話すぎると思うけど。
なぜわざわざ電話しようとするのかわからない。第一印象で「ブスだな」と思ったけど、2人で話してみたら「いい子だな」という印象に変わり、でも友人に「あんなブス」と言われたから「あれ?やっぱりただのブスなのか?いや違うよね?電話して確認しよう!」ということなのかっ。
しかも恋人にすることはないだろうとか言ってるーー。恋人に「なる」ではない、恋人に「する」って言い方が上から目線ーー。なんだそれは。ただのブスではないけど、ブスはブスに変わりないから恋人には「する」ことはないってことなんじゃないのかおい。
結局その女の子の電話番号が書かれたメモを失くしたから、電話はかけなかったのだけど、本当に失くしてよかったよ。そしてこの人、電話番号も友人に聞けば教えてくれるだろうけど、「返ってくるであろう反応が面倒で、彼に聞く気にはどうしてもなれなかった」とか言ってるよ。やっぱり「お前あんなブスのこと気に入ったのww」と思われたくないからだよねそうだよね。
この人、本当に余計なお世話すぎるっ。
むむむ村上春樹いけすかない。いや村上春樹がいけすかないのではなく、そこに出てくる男がいけすかないのだが。
村上作品の男たちは私の「なんか嫌い」や「ちょっとイヤ」を刺激し、「なんなんだこいつは」とほどよく思わせる。
ものすごい嫌悪感だったり生理的に無理な気持ち悪さではなく、ちょっとした違和感、読み解きたくなる嫌悪感。
自分が何が好きなのか、何を良いと思うのかは、よく知っている。自分がどういうものが好きなのかはわかってる。
でもその逆はあんまり知らない。何が嫌いなのか、どういうものが嫌いなのか、なぜそう思うのかを掘り下げたことは今まであんまりなかった。
村上春樹の作品にはそういったものがちょくちょく出てきて、その嫌悪感を読み解きたくなる。言語化して突っ込みたくなる。そんなところも読みどころになっていて面白い。
ポジティブな気持ちを因数分解して読み解くことは自分の価値観や感覚の輪郭を知ることだけど、ネガティブな気持ちの因数分解も同じことだ。どちらも自分がどんな人間なのか知ることにつながる。そして「好き」だけじゃなく、ちゃんと「嫌い」も知ることは、自分という人間が底上げされたり重みが増すような気がする。
自分という人間の器やその輪郭を知ることは、なんだか楽しい。
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『街とその不確かな壁』村上春樹
村上春樹の作品には、女性との別れによる喪失を書くものが多くある。
『ノルウェイの森』もそのひとつで、この作品では女性との別れを他の女性で埋め、女性との別れで空いた穴を女性にケアしてもらうことでその傷を癒していたが、『街とその不確かな壁』では女性との別れで空いた穴を、他の女性で埋めようとするもうまく行かず、結局穴の空いた自分を自分で抱きしめることで、傷を癒し過去の呪縛から脱する物語になっていた。
村上春樹の多くの主人公と同じく、『街とその不確かな壁』の主人公も高校生の時に失恋をする。
その恋の相手である〈きみ〉は心に何か問題を抱えている女の子で、主人公である〈ぼく〉に、高い壁に囲まれた特別な街の話をする。その街の中では「本当のきみ」がいて、〈ぼく〉の前にいる〈きみ〉はただの移ろう影のようなものであるらしい。
〈きみ〉と〈ぼく〉が街について話す中で街は具体的な細部を持ち、2人は街を作ることと手紙を交わすことで、深く関わりあっていくが、何度目かの待ち合わせで〈きみ〉は約束の時間より40分遅れてくる。
やっと現れた〈きみ〉は、いつもとは何かが違いずっと無言で、やがて泣き出す。
そんな姿を前にして、17歳の〈ぼく〉が思ったのは、
自分がもっと強ければいいのにと思う。もっと強い力できみを抱き、もっと力強い言葉を君にかけてあげられればいいのに——そのひとことで場の呪縛がさっととけてしまうような、正しく的確な言葉を。でも今のぼくにはまだそれだけの準備ができていない。ぼくはそのことを悲しく思う。
ということだった。
〈きみ〉が抱えている問題に自分は何もできない、強く抱きしめることも力強い言葉をかけることもできない。それは自分に準備ができていないから、未熟だから、そう思う。
その後も季節は巡るが〈ぼく〉はそうした言葉を見つけられないままで、〈きみ〉は長い手紙を残し、姿を消してしまう。
そうして〈ぼく〉は大きな失恋をし、その傷を完全に癒せぬまま、その失恋が生んだ大きな空白を埋められぬまま大人になる。
大人になり45歳の誕生日を迎えた〈ぼく〉は、〈きみ〉が話し2人で作った街がある壁の外の穴に落ちる。その壁の内側に足を踏み入れるには影を棄てなければならなかったので、影を棄て、街の中で本当の〈きみ〉と出会う。
街の図書館の中で夢読みという役割を得て、〈ぼく〉のことは覚えていない15歳の姿のままそこで働く〈きみ〉と緩やかな交流を続けるが、ある日影が元の世界に戻りたいと言い出し共に戻ることにするも、最後の最後で自分は残るといい、影だけ元の世界に戻ることになる。
元の世界に戻った〈私〉(ぼく)は、それでも街の中に未練があるのか、街の中の図書館と似た佇まいの図書館へと転職を決め、移住する。そこで出会ったのがコーヒーショップで働く女性だ。
〈私〉は彼女の店に通い、会話を交わし、店の外でも会うようになり、どんどんと距離を縮めていき、自然な好意を抱くまでになる。
しかしその彼女も、きみと同じく心に問題を抱えていた。〈きみ〉と違い、彼女は〈私〉にその問題の仔細を語るも、〈私〉は「その分野のことはとりあえず、できるだけ忘れるように努力しよう」言うことしかしない。その後、
カウンターの上に置いた私の手に、彼女が手を重ねた。五本の滑らかな指が、私の指に静かに絡んだ。種類の異なる時間がそこでひとつに重なり合い、混じり合った。胸の奥の方から哀しみに似た、しかし哀しみとは成り立ちの違う感情が、繁茂する植物のように触手を伸ばしてきた。私はその感触を懐かしく思った。
と、2人の心が重なり合う親密なシーンが書かれるが、それも一瞬のことで、〈私〉の心はすぐに、その日の昼頃から心に引っかかっていた問題、思い出せずにいたロシア五人組の最後の1人は誰かという問題に立ち返る。彼女が自身の問題を話し、内面を吐露している間も〈私〉はずっと、ロシア五人組のことを考えていた節がある。彼女が長年抱えていた問題よりも、昼から気になっていた問題の方に意識を捕らわれている。
心のどこかでは別のことを考えていて、彼女が泣いていることにもすぐには気付かない。気付いた時には彼女は泣き出していた。〈私〉は泣いている彼女の肩に手を置くが、そのやり方はすぐ前のシーンで手を重ねた時と違って、ただ物理的に置いているだけのようにも見える。
〈きみ〉が泣いた時と彼女が泣いた時では、〈ぼく〉(私)の対応が明らかに違うが、それは相手に対する熱量の差だけではなく、〈私〉が失恋をし大人になり、誰かが抱える問題を解決するような言葉などないということ、「そのひとことで場の呪縛がさっととけてしまうような、正しく的確な言葉」などないと知ったからだ。〈私〉の失恋を癒してくれるような的確な言葉をかけてくてる存在がいなかったことと同様に、自分も彼女の問題に対してかける言葉がないことを知っていて、「忘れるように努力しよう」と言うことしかできないからだ。
私が彼女の手を握りながら感じた「胸の奥の方から哀しみに似た、しかし哀しみとは成り立ちの違う感情」とは、正しく的確な言葉を持たず、彼女に寄り添うことのできないという無力、孤独ではないか。
人と人が向き合い寄り添うことが容易ではないことは、
私が求めているのは彼女のすべてではない。彼女のすべてはおそらく、今手にしている小さな木箱には収まりきらないだろう。私はもう十七歳の少年ではない。その頃の私は世界中のあらゆる時間を手にしていた。でも今は違う。私が手にしている時間は、その使い途の可能性は、かなり限られたものになっている。今の私が求めているのは、彼女が身につけた防御壁の内側にあるはずの穏やかな温かみだった。
という〈私〉の内省からも伺える。ただでさえ人が人と向き合うことは難しく、全てを理解することはできず、自分の全てを賭けて寄り添うことはできないのに、〈私〉はもう若くはなく手にしている木箱は小さく、時間の使い途は限られている。〈私〉ができることはもう少ない。
それでも〈私〉は防御壁の内側にあるはずの彼女の温かみを求めている。しかし、壁の中の街にいる〈きみ〉に、自分の半分が捕らわれたままで、〈私〉は彼女と向き合えるだろうか。
〈私〉が再び街の中で目覚めるのは、この内省のすぐ後だが、この内省と街で目覚める場面の間には、ガルシア=マルケスの小説の一場面が挿入されていて、そこには「危険な渦に誘い込もうとしている女の亡霊」が出てくる。これは女の亡霊が、街の中にいる〈きみ〉を表し、危険な渦に誘い込まれてしまった〈私〉を暗示させている。〈私〉は過去に捕らわれ〈きみ〉に捕らわれたもう半分の自分を救いに街へと戻ったのだ。
再び街の中で目覚めた〈私〉はそこで、少年と出会う。この少年は、実際の世界で〈私〉が再就職した図書館の常連で、〈私〉から街の存在を聞いており、街へ行くこと、夢読みの仕事に就くことを熱望していたが、少し前から行方不明になっていた。
少年はサヴァン症候群の持ち主で、両親や兄弟からの理解を得られず、学校でも上手くやっていけない孤立した存在だ。誰からも理解されず、心のこもった交流をすることもなく、唯一交流のあった人物とも死別し、この少年は、人は所詮独りであるということを身に染みて理解している存在といえる。
そのことは、一度目にした本は全て覚えてしまうというサヴァン症候群の特徴になぞらえて、〈私〉が少年のことを「究極の個人図書館」と呼んだこと、「人が未だ足を踏み入れたことのない漆黒の暗闇に、誰の目に触れることもなく堂々と屹立している」と言い表したことからも伺えるだろう。
少年は、人は独りであることを知る究極の個人なのだ。
少年と〈私〉は街の中で一体化し、共に夢読みの仕事をする。少年は古い夢の語る内容を〈私〉よりもよく理解し、〈私〉は少年よりもうまく古い夢に共感を示し、温め安らぎを与えることができる。彼ら2人は「お互いの欠けている部分、足りない部分を補完し合う共同体」として夢読みの作業にあたることになり、それは円滑に進む。
そうした共同体が築けたのは、少年が究極の個人であること、〈私〉が少年に対して〈きみ〉の時のように依存していない、行方不明になっても大きな穴が生ずるほど入れ込んでいないこと、〈彼女〉との関わりで他人には自分の穴を埋めることができないと実感したことが影響している。〈私〉は少年の前では、自立した個人でいられたのだ。
自立した個人と個人だからこそ、お互いの欠けている部分足りない部分を補完し合う共同体が作れるということを、少年と夢読みの作業を通して経験する。
少年はそうした共同体にのあり方について〈私〉に示しただけでなく、自分で自分を受け止めることの重要性、セルフケアの重要性を説く。実際の世界に戻り現実を生きることにした〈私〉に向こうにいる自分の分身を信じること、もう1人の自分が受け止めてくれることを信じることが命綱になると話し、〈私〉は実際の世界へと送り出される。
17歳のぼくはきみを救うこと、きみに寄り添う言葉を見つけられると思っていた、だけど人が人を救うことなどそもそもできなかった。それでもきみのために何かできたのではないかという思いが残り、45歳になってほんとうのきみがいる街へ行った。ほんとうのきみはぼくのことを覚えていなかった、きみのためにできることはなかった。そして半分だけ、影だけは実際の世界に戻ってきた。コーヒーショップの女性との関わりの中で、人が人のためにできることは限られていること、他人の手が届く範囲は限られていることを実感した私は、まずは自分が自立するため、自立した自己で他者と関わるため、過去に囚われた自分を取り戻しに街の中へ戻る。そこで究極の個人として屹立する少年と共同で夢読みの仕事をすることで、支え合う補い合うということはどういうことかを知る。少年に、自分の分身を信じること、もう1人の自分が自分を受け止めてくれることを信じるように促され、実際の世界へと送り出される。それが『街とその不確かな壁』という物語だ。
大きな喪失を経験し、抱えきれない程の傷みを抱えている時に、まるごと私を救ってくれる他者はいるかもしれない。でもそうした他者に出会える確率は残念ながらとても低い。人は人の傷みに寄り添えない、人が抱えてる問題や穴に寄り添えない、そこから救い出してもらうことなど簡単に期待してはいけない。だから自分で自分を救うしかない。
はなから人に癒してもらおう支えてもらおうとするのではなく、まずは自分で自分を救うしかない。悲しみの底では他人の手は届かない。悲しみの底にいる自分を自分で抱き留め、自力で他者の手が届く範囲まで浮上しなくてはならない。
そうして悲しみの底から浮かび上がる力がある人こそが、他者と足りない所を補い合い支えあえるような共同体を作ることができる。そうした共同体の中でこそ、悲しみの底に沈んだままの手に負えない傷も徐々に癒えていく。
『ノルウェイの森』では女性との別れによる喪失をすぐに別の女性で埋め、自分1人の力で自分の傷を癒すことがなかった。『街とその不確かな壁』では女性との別れによる喪失、傷ついた過去に囚われる自分を自分で救いに行き、受け止める。
その後〈私〉はどうなるのか、街から帰ってきた〈私〉は〈彼女〉とどう関わっていくのか。それはわからない。
だけど、この小説は、喪失を経験しその喪失から再生しても、また他者との繋がりを求めるという、傷ついても全てを理解できなくても他者との関わりを希求せずにはいられない人間のあり方と、依存からの自立、自立した個人と個人との共同関係のあり方においてのセルフケアの重要性を提示している。
かつて挫折した村上春樹を読んでみたらちょっとハマった。
村上春樹は高校生の頃にデビュー作辺りの何冊かを読んだけど、良さがわからなかった。部活の同期と先輩が春樹作品について熱く語っているのを横目で見て、羨ましく思っていた。
でも村上春樹は、新作を出すたびに話題になるし、ハルキストと呼ばれるような熱狂的なファンもいるし、ノーベル賞を取るのではないかと期待されている作家だし、いつかはハマりたい!ハマるまではいかなくとも、その良さがわかるようになりたい!と思っていた。が、読みたい本は他にも沢山あり、読まなきゃいけない本も沢山ある中でなかなかきっかけが掴めず先延ばしにしていた。
最近、その積年の思いをやっと叶えた。そしてちょっとハマった。
村上春樹に再挑戦する。
村上春樹に再挑戦するきっかけになったのは、「渡辺祐真(スケザネ)の「現代文学」から考える「世界」と「言葉」~作品の読み方から感想の書き方まで~」という講座で最新作の『街とその不確かな壁』が扱われることになったから。
https://peatix.com/event/3586258peatix.com
この講座内容が発表される前は読む気はなかったけれど、毎回楽しく参加している講座なので、予習として読むことを決め、そして書評家の三宅香帆さんがTwitterのスペースで『街とその不確かな壁』は「春樹初心者におすすめする作品ではない、他の作品読んでからの方がいい」と言っていたのを思い出し、これを機に色々読んでみよう!と決意した。
読んでみたら面白かった。あれだけ良さがわからなかったのになぜだか面白かった。
『アフターダーク』と『ノルウェイの森』
まず何を読んだらいいのか迷ったものの、図書館にあってちょうど良い厚みだった『アフターダーク』と村上春樹といったらこれなのでは?という『ノルウェイの森』を読むことにした。これが後に、我ながら良い入り方をしたな?と感じるくらい良い選書だった。
『アフターダーク』は深夜という時間が舞台になっており、その時間帯故の親密さとか、静けさや暗闇の中で人の存在感が高まる感じが好きだったし、『ノルウェイの森』はなんだかよくわからないところもあるし、首を傾げたくなる部分もあれど、なぜか好きだった。
このなぜかわからないけど好きっていうの、好きの分類の中ではなかなか厄介だ。わからない、わからないけど好き、わからないから気になっちゃう、余計に好きになってちゃうという厄介さ。
最初に読んだ本で、単純に「好き!」と感じ、次に読んだ本で「なんかよくわかんないけど好き….」と、うまく言語化できない好きポイントを突かれるというのも、沼に引き摺り込まれそうな予感のする厄介な入り方である。
村上春樹作品の家事
作品群の良さはまだ具体的にわからないけれど、読んでみてわかったこともいくつかある。それは、村上春樹って「クリーム色のカーテンは日焼けが目立たない」とかいってるし、ちゃんと生活してたんだな!ということ。抽象的なことばかり言っていて、うちに籠ってばかりなナルシストというイメージがあったので、それが意外だった。
しかし家事はちゃんとしているけど、生活感がない。ひとつひとつがなんか洒落臭い感じもある。料理とか掃除とか全部作業っぽい。家事は家事で、それ以上でもそれ以下でもない、ただの作業という感じがする。
家事ってもっと雑味があるのでは。「料理より掃除の方が好きだなぁ」とか「面倒くさいけどやらなきゃ」とかそういった感情?生活感?が村上春樹作品の家事には感じられなかった。
村上春樹と吉本ばなな
じゃあ作業ではなく、雑味のある家事を書いている作家って誰だ?と考えて思い浮かんだのが、吉本ばななだ。吉本ばななの書く家事は生活感がある。家事の描写にその人の感情や人生、生活が乗っているような気がする。
そう考えると村上春樹と吉本ばななって関連性がないように見えるけど、どちらも「喪失」をテーマにする小説をよく書いている。村上春樹に関しては『アフターダーク』と『ノルウェイの森』を読んだだけだし、『ねじまき鳥クロニクル』は最初の方で挫折しただけだけど、確かにそのイメージはある。
村上春樹は女性との別離を、吉本ばななは家族との死別をよく書いている。だけど、その喪失の書き方やそこからの立ち直り方が全然違う。
村上春樹と吉本ばななって、似ているけど全然違うという気づきは、2人の作品をさらに読み進めよく考えていくと面白そうだ。この2人の組み合わせは意外だけど、その意外さが面白い。
その発見があったのも楽しくて、村上春樹に再挑戦してみて良かったなぁと思う。
沢山本を読んでいくと、様々な作品が自分の中で積み上がっていくのが面白い。沢山蓄積したものの中で比較検討ができて、今までよくわからなかった作品の良さがわかるようになったり、より良さがわかるようになったりする。それが面白い。
あの時わからなかった村上春樹の良さがわかるようになっていたのも、あれから沢山本を読んできたからなのかなぁと思うと、今までの読書体験が全部まるっと活きているような気がして嬉しくなった。
まとめ(具体的なケチと曖昧な好き)
村上春樹の良さがわかるようになったとはいえ、良く思わないこと、例えば洒落臭いだとか気持ち悪いとか、「○○みたいに」が多いよ!(洒落臭いの亜流)とか、ケチをつけたくなる部分も多い。
ケチをつけたくなる部分は具体的に挙げられるのだけど、良いな好きだなと思うところは、どこがそうなのかわからない。どこが面白いのかはよくわからない。
そうした現象が起きていることも含めてこれはもう、村上春樹にハマった…のかもしれないので、これから過去作をちょくちょく読んでいきたいと思っている。
この後に『街とその不確かな壁』の感想を書こうとしていたのですが、長くなりすぎるので分けます。
これっておじさんが40すぎてセルフケアできるようになった話だよねっていうことを今長々と書いています…。
読書日記『珠玉』
彩瀬まるさんの『珠玉』を読んだ。単行本で読んで、文庫化して読んだので読むのは再読になるんだけど、この作品はたくさんある彩瀬さんの作品の中で埋もれているような気がする。粒だっていないというか主張が強い方ではないというか。
好きなシーンも台詞もモノローグもいっぱいあるんだけど、なんか埋もれてるいるというか輪郭が曖昧な小説だ。
こう感じるのは私だけだろうか。初読後に書いたブログの感想記事を読むと今と全然違うテンションだから、今の私の気分なんだろうか。
なぜそう感じるかというと、この小説は視点人物が複数いるのにその視点の切り替えがあまり劇的でないように思う。視点人物が複数いる話って連載短編形式にした方が劇的になって読みやすいし吸引力がありそうだ。(劇的であること吸引力があることと、その作品が面白いか良い作品かどうかは別ものなんだろうけど。)
短編ではなくて、長編で複数の視点人物を操るのは難しいんだな。かといって長編を1人の人の視点でずっと書くのも話を立体的にするのが難しそう。
初読では気にならなかったところからそんなことを考えた。
もう一つ気づいたところは、この小説には彩瀬さんの好きなモチーフとか関係性とか台詞がたくさんあるということ。
味方でいてくれる服とかアクセサリーとか、主人公の盲点を付くセリフとか、連帯してきたつもりだけど添い遂げられず決裂してしまう女たちとか。
それらが彩瀬さんの好きなものなのかはわからないけど、他の作品にも出てくることは確かで、彩瀬さんはそういうの書くのが好きなのかなぁと思わせるほどではある。
彩瀬さんだけでなく、同じモチーフや似たシーンをいろんな作品に書く作家さんはよくいる。そういうのって好きというより書きたいものなんだろか。書きたいという前に自然に書いちゃってるものなんだろうか。
これこの人よく書いてるなぁとか、こんなシーン前読んだ作品にもあったなぁとか、そういうのに気付けると嬉しいというか癒されるというか、なんか安心する。
好きな作家さんが好きなように作品を書いてて、書きたいことを書けてるような気がして。
読者として書いて欲しい話とかぼんやりとあるけれど、作家さんには自分の書きたいことを書きたいように好きなように書いて欲しい。読者として一番読みたいものはそれだ。
『君のクイズ』小川哲
本を読んでいると、本と私の経験が重なり合い「わかる!」と思う瞬間がある。そんな瞬間があると、本と深いところで繋がりあえたような、本と私が溶け合い、本の一部が私に私が本の一部になれたようで、深い感動を覚える。
こんな瞬間を増やしていくためにも、もっと本を深く理解するためにも、沢山のことを経験したい、私は私の人生をちゃんと生きようと思える。そうなってくると、人生が先にあって本があるのか、本が先にあって人生があるのか、もうよくわからない。
私にとってのそれは本だったけど、小川哲『君のクイズ』の主人公三島玲央にとってのそれはクイズだった。
この小説は『Q−1グランプリ』というテレビの生放送で行われるクイズ番組の決勝戦から始まる。決勝戦まで勝ち抜いたのは三島玲央と本庄絆の2人。
三島は10年以上毎日クイズをやり続けてきたクイズオタク、一方の本庄は尋常ならざる暗記力を武器にテレビのクイズ番組で活躍してきたマルチタレントだ。
そんな2人が決勝戦で出会い、一進一退の攻防を展開した末、この問題に正解すれば優勝者が決まるという問題が今まさに読まれるという瞬間、本庄は解答ボタンを押し、「ママ.クリーニング小野寺よ」と答える。
問題文が一文字も読まれていない中での解答という異様な状況の中、鳴り響く正解音。本庄はなぜ解答できたのか、なぜ正解できたのか。番組と本庄が結託したヤラセではなかったのか。その疑いに答えを出すため、三島は問題文がどこまで読まれれば答えがわかるのか、クイズの正解がわかるまでにはどういった過程があるのかを考え始めるが、それはクイズとは何かを考える過程でもあった。
三島は『Q−1グランプリ』で出された問題を振り返る過程で、その問題と自分の経験が紐づいていることに気づく。幼少期に兄とラジオを聞いた思い出がなければ正解がわからなかった問題があり、大学生の時にできた彼女との思い出、その彼女との別れ、出張先での出来事、それらがあったからこそ解答でき、正解を得られた問題があった。出題された問題を振り返ることは彼の人生を振り返ることだった。
三島は本庄の0文字解答の謎を追う過程で、「クイズに正解できたときは、正解することができた理由がある。何かの経験があって、その経験のおかげで答えを口にすることができる。経験がなければ正解できない」ということに気づき、そして「クイズとは人生だ」という答えに辿りつく。
より多くのクイズに正解するために人生がある。人生を肯定するためにより多くのクイズに正解する。クイズのための人生。人生のためのクイズ。それが三島にとってのクイズであり人生なのではないか。三島は優勝することができなかった。彼にとっての目的であるそれが他者にとってはひとつの踏み台でしかなかった。だがしかし、それのために人生があり、人生はそのためにあるという人生の目的を見つけた。
『君のクイズ』は本庄がなぜ0文字解答ができたのかの謎を解くミステリーだが、三島が人生の意義、人生を容れる器、その輪郭を掴むまでのビルディングスロマンでもある。
0文字解答という問いで始まった物語は、三島玲央の「クイズとは人生だ」という解答で終わるが、この本がもうひとつ読者に問いかけるのは、「○○とは人生である」あなたにとってこの○○に当てはまるものは?という問いではないだろうか。