本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

Log7いざという時役に立たなくてもお守りはお守り

某月某日

『まいまいつぶろ』を読む。

己の出世しか考えてなかったような人がそれを投げ捨てて、他者のために身を捧げることを決意するシーンっていい。

 

久しぶりに時代小説を読んだ。私は好みの小説を関係性でいうと、主従関係を書いた小説が好きなのだが、それなら私はもっと時代小説を読んだらいいのでは?と気づいた。 

主従関係を書いたものが好きといっても、読んでみないとそれが書いてあるかどうかわからないのが悩みどころだ。「主従関係小説」なんてジャンルはないのだから。

でも時代小説で将軍とか武将とか出てくるものを読めば、それにあたる確率は高いかもしれない。あとはイギリスの貴族の話とか?

 

もっとたくさん本を読んで、もっとたくさん好みの主従関係小説に出会えたら、同じ好みを持つ人にむけて「おすすめ主従関係小説5選」とかやってみたい。

 

 

 

 

某月某日

トーベ・ヤンソン短篇集』を再読する。付箋が貼ってあるところに差し掛かるとちょっと緊張する。再読は日記を読み返すようなものだ。

私は、日記を読み返すということがない。自分が相対化されて他人のように思えて心許なかったり恥ずかしくなってしまうから。

そこで理解できない自分、他者になってしまった自分と出くわすこともある。なんでこんなところに貼ったのか理解できなかったらどうしようと思うとちょっと怖い。

他人になってしまった過去の自分と仲良くするやり方がよくわからない。だけど、今日読んだ付箋のところはここに付箋を貼った過去の自分が愛おしいと思える文章だった。

 

 

 

 

某月某日

『けんごの小説紹介』を読む。

面白そうな本を探すためというより、けんごさんの小説紹介の仕方を分析して学ぼうと思って。

 

けんごさんも、声優で作家の池澤春菜さんもそうだけど、本の紹介が上手い人はあらすじの紹介が上手い。「その先はどうなるの?」という気持ちにさせるまでの誘導が上手い。そしてちゃんと美味しいところは取っておいてくれる。情報の放出と抑制の匙加減が絶妙だ。

 

私はどうにもあらすじ紹介というのが苦手で、客観的事実を把握して整然と並べ立てることができない。とっちらかってしまう。

小説を読んでいる時は、頭のなかで筋を整理しながらというより、感情が波に乗って右から左に流れていっている。読み終わった後残るのは微かな感情の名残だけである。

もっとこう、頭の中に家を組み立てるように筋を組み立て、その中に感情を入れ込むようにして読めば、あらすじ説明も上手くなるし、読んだ本のことを鮮明にいつまでも覚えていられるのだろうか。それはどうやってやるんだろうか。

 

 

 

池澤春菜さんの本紹介っぷりが気持ち良くも恐ろしくなってくる動画↓↓


www.youtube.com

 

 

某月某日

『永遠のおでかけ』を読む。

益田ミリさんのエッセイはあらかた読むと決めたので、特に中身を確認せず図書館の棚にあったいくつかの中から適当に選んだものだけど、「あぁこれは親が年老いてきている中年が読むと辛いやつかも」とちょっと後悔する。こういう話ならもうちょっと読むのに心構えが必要だったと。

 

それでも読む。

 

人間ならば誰しもが経験するような出来事があって、それを人生の先を行く人たちが書き記してくれるのはありがたいことだ。

そうやってちょっとずつ準備して、だけどいざ自分の番が来たら全く役に立たなかったり大いに役に立ったりするのだろう。

どちらにせよ束の間のお守りになることには違いない。

 

 

 

 

某月某日

『TED 脅威のプレゼン』を読む。

魅力的な本の紹介ができるようなりたい、そのヒントになるものがないかと読み始めた。

 

プレゼンにはストーリーが重要らしい。そのストーリーで聴衆の感情を動かすことによって、魅力的で記憶に残るプレゼンになるのだとか。

 

確かに感情が揺さぶられた小説は記憶に残る。ならば前のめりで感情移入していって感情を揺さぶりにかかれば記憶に残る小説は増えるだろうか?そうすればもっと小説を楽しめるようになるだろうか?

でもそうやって前のめりになること、感情を動かすことは元気じゃないとできない。元気じゃないと心を開いて前のめりになって心を動かせない。

 

プレゼンしたいものと自分の人生のストーリーを絡めるのも、プレゼンを印象深く魅力的にする秘訣らしい。

でも語れるストーリー、プレゼンに有意に働くストーリーなんてそうそう人生に起きない。

ストーリーというのはもっと行動的になって人生を動かしていかないと巻き起こらないものだ。

そんな行動を起こすためには元気がいる。

 

手持ちの人生もしっかり向き合って分解して吟味して組み立てれば魅力的になるのかもしれないけど、そんなふうに自分の人生に向き合うのも元気がいる。

 

魅力的なプレゼンのためにはどうにもこうにも気力体力が必要らしい。

 

 

 

45.『源氏物語 巻六』

巻六はほかの巻と違って二つの帖だけ。若菜上と若菜下のみ。でもそれぞれが結構分厚いので他の巻と厚さはだいたい同じ。

京都の博物館で写本を見たとき、この若菜上と下だけ分厚くて立体感がすごかった。源氏物語をリアルタイムで読んでいた読者はこの帖が回ってきた時には「今回はこんなに分厚いの?しかも上ってことは下もあるってことだよね?」とテンションが上がったのではないかなぁと妄想が広がって楽しかった。

 

 

若菜 上

朱雀院パパによる娘三の宮婚活物語のはじまりはじまりである。

出家したい朱雀院の唯一の心残りはまだ十三、四の三の宮。自分が出家して俗世を離れたら、一体この子は誰を頼りにして生きていくのだろうかと、パパは娘の行く末、婚活に頭を悩ませる。

 

朱雀院出家の噂を聞いた東宮にも娘の行く末の不安を吐露するのだが、その中に聞き逃せない箇所がある。

 

お忘れにならず、あの女宮たちのお世話をしてあげて下さい。その女宮の中でも、しっかりした後見のある人は、そちらに世話を任せてもいいのです。ただ女三の宮だけが、まだ年端もいかず、ずっとわたし一人だけを頼りにしてきたので、わたしが出家してしまったら、後は寄るべもなくなり、どんな世の波風に漂いさすらうことかと、それだけがしきりに心にかかって、悲しくてなりません

 

色んな男君を候補として挙げて、それぞれ利点や欠点をあげああでもないこうでもないと悩んだ末に結局白羽の矢が立ったのは光源氏だった。

 

朱雀院はしっかりとした後見のある人なら心配ないけど、そうした後見を持たない娘の三の宮が心配だというけど、いや紫の上も…後見がないんですけど…。光源氏を女三の宮に取られたらどうすれば…。

一回でも紫の上のことを考えたことがありますか。院という権力者の娘が嫁いできたら後見のない紫の上はどれだけ心許無くなるか不安定になるのか考えたことがありますか朱雀院。

源氏物語には紫式部の曽祖父が作った「 人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな」という、親心の闇の歌が何度も引用されるけど、自分の子供のことで頭がいっぱいで他の人のことまで考えが及ばないというのも、それはそれで闇である。

 

そうはいっても一応朱雀院も、光源氏が面倒をみている他の女君のことは頭の片隅にあるようで、

あちこちにお世話する女君たちが大勢おられることは、あまり問題にしないでもいいだろう。とにもかくにも、その辺のことは、どっちみち本人の心がけ次第だろう。

と言っている。

 

本人の心がけ次第に任せていいのですか?なんかこの言い方はやっぱり、「他の女がいっぱいいるのは知っているけど、いうてうちの娘が地位として一番だし一番大事にされるだろう。他の女の嫉妬やらなんやらは光源氏がうまくバランス取ったりあしらったりするだろう」なんてう本心が透けてみえる。

朱雀院も女三の宮が降嫁することで紫の上の立場が危うくなることは薄々感じていそうだ。

でもやっぱり自分の娘が心配で自分の娘が良けりゃそれで良いのである。やはり親心の闇である。

 

紫の上が辛いのは宙ぶらりんで間に挟まれて、身動きがどれないところだ。

光源氏に情をかけられて使い慣らされている女房には、

「まあ、只今はどんなお気持でいらっしゃることでしょう。もともと御寵愛をあきらめているわたしたちは、こんな時、かえって気が楽ですけれど」

なんて言われていて、この女房たちのように御寵愛を諦められていたらいいけど、女三の宮との結婚を蹴るぐらい溺愛されているわけでもない。

 

朱雀院からは、

 

幼い人が、何のわきまえもない有り様で、そちらに参っておりますが、何卒罪もない者と大目に見て許してやってお世話下さるようお願いします。あなたとは従姉妹どうし、まんざら縁故のない仲でもないのですから。

 

子ゆえのの心の闇を晴らせないで、こんなお手紙をさし上げるのも、愚かしいことで

すが

と手紙でいわれ、それを読んだ光源氏にも

「おいたわしいお手紙だ。慎んでお引き受けするとお返事をさし上げなさい」

といわれ、宙ぶらりんの板挟みである。

つらい。

だれも紫の上の気持ちに寄り添ってくれない。

 

こうなると、紫の上の一番の不幸は宙ぶらりんでも板挟みでもなく、仲のいい気の置けない友達がいないことなのかもしれない。

他の姫君には母親や乳母子や女房がいて、一緒に嘆いたり、姫が幸せになるために行動してくれる相棒のような人がいるのに。

 

 

若菜 下

明石の尼君の幸福具合が良い。幸せな老人っていいな。

児童文学で孤児の子供が悲惨な状況にある物語は多い。それだけ子供が悲惨な目に合う物語は読者の同情を誘い、感情移入して応援したくなるというパターンなんだろう。それと同じくらい老人が悲惨な目に合う物語も辛い。老人が辛い目にあう物語は、児童文学の場合と違って老若男女に好まれる物語ではなく、同情共感する年代は限られるだろうけど、あれも孤児ものと同じパターンな気がする。子供には無邪気に笑っていてほしいのと同じくらい老人には穏やかにふくふくの笑っていてほしい。

 

尼君も、どうかすると、こらえきれぬうれし涙がこぼれ落ちるのを、しきりに拭くので、目のふちを赤く爛れさせて、長生きをして幸福な年寄りの、見本のようになっていらっしゃいます。

 

そんな尼君と対照的なのがここでもやはり紫の上だ。光源氏の本妻として(他の女の影に悩まされていたとはいえ)ずっと安定した地位にいたのに、三の宮の登場でそれも危うくなってきた。光源氏のお陰で幸運に恵まれ、他の人がしているような苦労はしなくてすんだけど、光源氏のせいでしなくてもいいような苦労もたくさんしてきた。紫の上は幸福なのか不幸なのか。というより、幸福なのか不幸なのかわからない中途半端で誰とも分かち合えない状態にいるしかない孤独な状態が紫の上の恵まれなさで不幸なのだ。

 

そう、やはり紫の上の一番の不幸はそれをわかってくれる母親も乳母や乳母子がいないこと。明石の姫君の入内に際し、紫の上は明石の君と和解してちょっと良い関係にはなった。でも相棒にはなり得ない。共に源氏の妻であるという立場が邪魔をしてしまう。紫の上と明石の君は対等であるが故に相棒にはなれないのだ。

バディになるには乳母と主、乳母子と主君のように、階級差が必要なのか。階級に差があったら相棒ではないか。でも階級差があるからこそ、階級ではない何かが対等になる気がする。

 

紫の上は周りの女御たちにも気を許さず、寝室で身じろぎをしたらその布ずれを聞いた女御たちに「寝れないんだ…悩んでるんだ…」と思われそうだから一切身動きを取らなかったというシーンもある。

紫の上がもっと周りに自分の苦悩を打ち明けていたらどうなっていただろう。プライドを捨ててそうすることはかなりの勇気がいっただろうけど、もしそうしていたら。女御たちはなんとなく紫の上を遠巻きに憐れんでる様子もあるし、もしかしたら光源氏の悪口大会でも開いて憂さを晴らせていたし、そうしたらそこまで追い詰められることもなく、結婚生活も少しは穏やかになったかもしれない。

紫の上に愚痴を言い合い嘆き合い励まし合うような相手がいたら…、と彼女の孤独を見るたびに思ってしまう。

 

 

 

 

 

44.『本と歩く人』

カルステン・ヘン『本と歩く人』を読んだ。なんだがめちゃくちゃ売れていて映画化もされた作品らしい。そりゃそうだよねっていう納得の一冊だった。

 

主人公のカールは書店員で、顧客が好きそうな本を家に届ける仕事をしている。毎日顧客の顔を浮かべながら一冊一冊丁寧に包み、その重さを感じながら店を出て、本と歩く毎日。

 

顧客は書店に行くことがない。だからこれはネットで本を買うのと同じことなのでは?と思うけど、カールと感想を話したり、AIではなくカールがリクエストに答えつつ次読む本を選んでくれる。そこがネットでポチるの違うのだろうか。でも書店でたくさんの本に囲まれているうちに、思ってもなかったような出会いをするというようなセレンディピティがない。

それでいいんだろうか。うーんなんかもやもやするなぁと思っていた時にシャシャという女の子が現れた。

 

この少女は毎日毎日広場を横切るカールが一体どこへ行くのか気になっていて、その好奇心のあまりカールの後をついてくるようになる。そしてカールが遠慮して踏み込まないような顧客の領域にもずんずん進む。

そうこうしているうちにカールはお客さんが本当に欲しいものをわかっていない!と、カールに内緒で選んだ本をカールの客に渡し始める。

そのシュシュが選んだ本が絶妙にずれていて面白い。

言葉遊びが好きな人に間違い探し集をプレゼントしたり、悲しい話を求めている人にジョーク集をあげたり。

一見的外れなようにも見えるけど、良いセレンディピティになりうるものだし、なかなか侮れない。

カールのように好きそうな本を教えてくれるのもいいけど、その「好きそう」から一歩踏み出せる本、固定化された日常に風穴があくような、楽しく乱してくれる本を教えてくれるのも嬉しい。

 

この本の配達サービスは、書店の経営難から廃止の危機にみまわれているんだけど、本好きの一人としてなくさないで欲しいという気持ちの他に、社会福祉サービスとしてめちゃくちゃ機能的でもあるから公的機関と連携してどうにか続けられないか?とも思った。

 

独居老人が孤立しないように民生委員がお宅訪問するのと一緒で、公的機関と連携した書店が本を届けてコミュニケーションを取ったり、時には読書会と称して外に出てきてもらって同じような境遇の人とおしゃべりする機会をもうけたりすると、なかなかいい福祉になるのでは。

 

インスタやXで「読書好きと繋がりたい」というハッシュタグをよくみかける。この小説の中ではカールとシャシャの届ける本が人と人を繋げる役目をしている。本を介して人と繋がりたい人はいるし本はその役割をきちんと果たすものだ。

高齢化社会だとか未婚率の上昇だとかで独居老人も増えるだろうし。なかなかいいサービスになるのでは。でもでも老人になると老眼で本読むの厳しかったりするのかな……。

 

 

 

43-2『ムーミンパパ海へいく』

前回『ムーミンパパ海へいく』ではムーミンパパのモラハラパパっぷりを力説したが、実はこの作品はそれだけでなく、メンヘラママも登場していた。

といってもそれはムーミンママではなく、モランというキャラクター。これは私が毒親育ちで、モランが自分の母親を連想させるキャラクターだというだけで、万人に共通する解釈ではないかもしれない。

しかし私にはそう見える。少なくともメンヘラではある。はず。

 

ムーミンパパモラハラ編はこちら↓

bookbookpassepartout.hatenablog.com

 

 

モランの初登場は『たのしいムーミン一家』というシリーズでも初期の方の作品。その作品ではムーミン谷に色々な訪問者が来るが、その中にモランもいる。しかしモランは歓迎されない。おもてなし精神が溢れるムーミンママでさえも家に入れない。そしてあとで誰にも愛されない可哀想な子とかいわれている。

可哀想だから家に入れてあげて相手をしてあげよう、とはならない。ムーミンママは知っている、モランのような存在に近づいても碌なことにはならない。モランは触らぬ神になんとやらなのである。

 

「ママ、あいつはどうしてあんなにいじわるになったの」

と、ムーミントロールがききました。

「だれのこと」

「モランさ。だれかがなにかしたために、それであんなにわるくなったのかしら」

「そんなことがわかるものですか」

と、ムーミンママはいいながら、しっぽを水から引きあげました。

「むしろ、だれもなにもしなかったからでしょうね。だれもあの人のことは気にかけないという意味よ。あの人自身もそんなことはおぼえているとも思われないし、自分でもあれこれ考えはしまいと思うわ。あの人は、雨か暗やみのようなものか、でなければ、通りすがりによけて通らなければならない石のようなものよ。コーヒー飲みたい?白いバスケットの中の魔法びんにいくらかあってよ」

 

モランは誰にも気にされなかった、愛されなかったが故に誰もに害を及ぼすような存在になった、でもそれでも近づいては危険なのだ。メンヘラの傷を癒そう、構ってあげようと思っても際限がなく、逆にこちらのメンタルが削られてしまうように。

 

 

ムーミンはある日海辺でうみうまという動物に恋をする。そのうみうまたちをなぐさめるために灯したカンテラを振るが、その明かりにつられてモランがくる。モランはカンテラ灯台の灯りや家から漏れる灯りなどに引かれてやってくるようだ。

 

誰かが好きなことや好きな人のために何かをやってるとそれを邪魔しに来る、自分に注意を向けさせるために台無しにくるというのもメンヘラ毒親っぽい。とにかく自分に注意を向けて欲しくて気を引きたくてしょうがないのだ。自分以外に向けられた灯りなんて許せない。まるでその灯りに冷や水を浴びせることが彼女たちの生きがいであるかのよう。

 

ママは再びムーミンに忠告する。

モランと話をしてはいけないし、あの人のことを話してもいけないのよ。でないと、あの人はもっともっと大きくなって、追いかけてくるんです。それに、あの人をきのどくがることはないんだよ。おまえは、あの人がなんでも明るいものをこいしがっていると思っているようだけれど、あの人がほんとうにやりたいのは、明かりの上にすわって火をけし、二度とふたたび燃えないようにすることなのよ。さあ、しばらくねむれるといいわね」

 

しかしムーミンはママの忠告を聞かない。優しく共感力の高いムーミンはやがてうみうまのためではなく、モランのために夜な夜なカンテラを灯し海岸に向かう。でもただ優しいとか同情してとかそんな簡単な気持ちだけではなく、ムーミンの胸中はもっともっと複雑で、モランに対する感情も複雑。

 

モランの目はカンテラの動きを追っていましたが、そのほかの部分は動きませんでした。でもムーミントロールは、モランがもっと近くによってくるにちがいないと思いました。

でもムーミントロールは、モランとはどんな交渉も持ちたくなかったのです。モランの冷たさからも、のろまさからも、孤独さからはなおさらのこと、遠くへにげだし

たかったのです。しかし、動くことができませんでした。わけもなく、ただもうでき

なかったのです。

 

灯油が切れてもうカンテラを灯せなくなったムーミン

交渉は持ちたくない、もう関わりたくないけど、がっかりさせるのも後ろめたくて苦しい。まさに毒親を持つ子の心理、親を断ち切れなくて苦しい心理だ。

 

でも、ムーミントロールはどうしたらいいのでしょう。モランはなんというでしょう。モランがどんなに失望するか、それを考える元気はありませんでした。そんなわけで、彼は鼻を前足の中につっこんで、階段にすわりこんでしまいました。

ムーミントロールは、まるでむかしからの友だちをうらぎってしまったような気がしたのです。

 

ムーミンパパ海へいく』の2つ前の作品、『ムーミン谷の冬』でムーミンはトゥーティッキという登場人物に「どんなことでも、自分で見つけださなきゃいけないものよ。そうして自分ひとりで、それを乗りこえるんだわ」といわれていた。それはムーミンに「自分のことは自分でやりなさい」と自立を促すのと共に、他人にもその人自身にしか面倒が見れない部分もあるということ、自他の境界線をしっかりと引くことを促すものでもあった。

トゥーティッキは事前にムーミンに教えてくれていたのだ。モランの孤独は本来モランが自力でどうにかするしかないもの、モラン一人で乗りこえなければならないものだと。

 

そのトゥーティッキの助言を図らずも実行するかのように、カンテレの灯油が切れる。もうムーミンはモランを照らすことができなくなった。それでも会いにいかないことに罪悪感を感じるムーミンカンテラがなくても会いにいく。

 

ムーミントロールはびっくりして、一歩前へでました。モランが自分に会えてよころんでいるのは、うたがいのないことでした。カンテラのことなんか、気にしていません。ムーミントロールが会いにきてくれたことをよろこんでいるのでした。

 

灯油がなくなったことを契機に、他者を照らそう癒そうと思わないこと、自他の境界線をしっかり引いて踏み込まない、その人を問題はその人にしか解決できないものもあると示唆したところで、急に全てが解決し、モランはメンヘラでなくなる、というのは少々納得がいかない。いかないけれども、このムーミンとモランの関係性この2人の話は、トゥーティッキが言っていた自他の境界線をしっかり引き、自分ひとりで乗り越えなければならないというメッセージだろう。

 

本当のメンヘラや毒親というものは、モランみたいに簡単に引きさがらないけど、会いに来てくれただけで嬉しいなんて言わないしこちらに際限なくあらゆる要求をしてくるものだけれど。

 

 

 

 

Log6 内なる偏見とか無理解による蔑視とか。

某月某日

ヘルシンキ生活の練習』を読む。

ヘルシンキでの子育てが私に関係あるかな、子供がいない私が読んでも惨めになるだけなのではと思ったけどとりあえず読む。そして、私の中には「子を産み育てる人のほうがそうでない人より優良」という偏見があることに気付く。

そうでなければ、「惨めになるかも」なんて思わないはずだ。

 

日本とフィンランドの子育てに関する文化や考え方の違いが面白い。

子育てはしていないし、これからもすることはないだろうけど、自分育てはたぶん死ぬまで続く。その参考になった。

「練習が足りてるところ」と「練習が足りてないところ」があるだけで、資質とか才能ではないという考えに気持ちが軽くなる。

練習していこう。

 

 

 

 

某月某日

『四維街一号に住む五人』を読む。

面白かった!キャラクターがいきいきしているのがいい。台詞のみでどのキャラクターが喋っているのかわかるぐらい、それぞれの個性が光っている。

エンタメの中に台湾っていう国の複雑さもしっかり入っていて硬軟の合わせ技が巧みだった。

しかし台湾も韓国もちゃんと文学が政治と向き合っているのに、それに比べて日本は。

 

 

 

 

某月某日

『銀座缶詰』を読む。

やっぱりやっぱり益田ミリさんのエッセイが好き。

するすると読める。浸透圧が同じだかなんだかで体にすーーっと染み込む清涼飲料水みたいな文章。

だけどピリッとざらっとすることもある。それはミリさんのピリッとざらっとした体験を私もした事があるからだ。そうやって自分と他者を重ね合わせることができて嬉しい。

 

嫌な感じの接客をする店員に何か言ってやればよかったと思って、次の機会にはちゃんと言ってみたり、若者に気を遣わせないように気を遣う年齢になってきて試行錯誤したり。

わかる。わかるよ。好き。

 

 

 

 

某月某日

『台湾文学の中心にあるもの』を読む。

先日読んだ『四維街一号に住む五人』を読んでから台湾熱が高まっていて。

『四維街〜』を読んで感じた、日本の文学は政治と向き合っていない問題に冒頭から触れていてありがたい。

そしてまた『四維街〜』でも描かれていたけれど、一口に台湾といっても、その成り立ちはやっぱり非常に複雑だ。その複雑さを詳しく説明してくれている。

新日の時があったり親中の時があったり、周辺国の政治に巻き込まれてきて、色々なルーツを持つ人々が様々な言語を話していて、簡単に台湾人と一括りするのにも憚りができる。

 

家の近くにあったセブンイレブンに中国訛りの日本語を話す店員さんがいて、そのセブンイレブンは潰れてしまったのだけど、今度は近くのファミマで働いていた。

散歩がてらちょっと離れたファミマでチケット発券に行った時もその人がレジにいてびっくりした。聞くところによると、その人は近くにある中華料理店でも働いているらしい。

私はずっとその人のことを「中国の人」と思っていたけど、この本を読んでいてそれも怪しいなと思った。

中国の人かもしれないし香港の人かもしれないし台湾の人かもしれない。私は中国のことも香港のことも台湾のことも碌に知らない。

その人のことを中国人だと思っていることを誰にも話したことはないけど、そんな自分がちょっと恥ずかしかった。自分の無知と内なる差別意識に気付かされ恥ずかしかった。

 

 

 

 

某月某日

ゴッホの手紙』を読む。

ゴッホが耳を切り落とした後、包帯をぐるぐる巻きにして自画像を描いたというやつ、あれは一体どんな気持ちだったのだと思い続けていた。ナルシストなのか?厨二病的な美意識なのか?とイマイチ理解できなかったんだけど、その謎が解けた。

 

「愚痴を言わずに、苦しむ事を学び、病苦を厭わず、これを直視する事を学ぶのは、眼もくらむばかりの危険を冒すのと全く同じ事である」と彼は書いている。彼の言うところに誇張はなかったでしょう。この追いつめられた人間の、強烈な自己意識が、彼の仕事の動機のうちにあるのです。それこそ彼の耳に繝帯をした自画像の視点そのものなのです。彼の手紙を読んで、狂気との戦のあとを追って行くと、この視点を失うまいとする努力が、精神の集中と緊張とによってこの視点を得ては失い、失っては得る有様が、手に取る様に感じられるのです。

 

あの自画像は自身の狂気と病の記録であり、それと向き合う姿勢の現れだったのだ。

ナルシスト?厨二病?と思っていた時の私の視線はそれを馬鹿にしていたかもしれない。理解できなさあまりに見下していたかもしれない。

 

自分がわからないことだからってそれを見下したり軽んじるのは良くない。自分にはわからないしっかりとした理屈や崇高な論理が働いているもので、そういうものに守られているかもしれないのに。と、そんなことをシートベルトしない若者とか、ピッケル持たずに登山する若者の話を聞いて思ったばかりだったのに。そうした若者と同じだったのだ私は。

 

 

 

 

 

ゴッホについては前にも書いた。前読んだ評伝でも泣きそうになっている。

 

『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』 - 本読みの芋づる

 

43.『ムーミンパパ海へいく』

ムーミンパパ海へいく』を読んだ。ムーミンシリーズ最後から2番目の作品で、シリーズでムーミン一家が出てくる最後の作品だ。最後の最後でムーミンパパの印象がガラリと変わってしまった。良くない方に。

 

平和なムーミン谷でやることがなくなったパパは、灯台のある孤島に家族全員で移り住むことにする。

まずこの時点で家族からすると良い迷惑。

なぜパパはムーミン谷の平和に耐えられないのかというと、それは家長らしさ男らしさというものが平和な世界では発揮しずらいからではないか。

困難な状況の中で家族を守るだとか、家族をまとめ上げて家族の平和のために戦うというのが、家長の役割であり男の仕事だとか思っていて、平和が達成された今では、その役割や仕事がなくなり、手持ち無沙汰になってしまっている。平和はムーミンパパにとってのアイデンティティクライシスなのだ。

 

絶海の孤島に移り住み、そこで家族を守り暮らすという責務を得たムーミンパパは良くない男らしさ、良くない家父長らしさをどんどん発揮し始める。

 

どうやらパパは家族のために肉体労働をすることこそが男らしい家長の在り方だと思っていて、その仕事に悦を感じているようだ。

例えば食料の調達のために網をしかけるとか。

 

網をしかけるのは、とても楽しい感じでした。それは男らしく心のおちつく仕事で、しかも家族のためにする仕事なんです。

 

例えば暖を取るためにたき木を集める仕事とか。しかしこれはムーミンママが先にやっていたのを制してやろうとしてママに怒られる。

 

はじめのうちは、ムーミンパパはおどろいて、自分でたきぎ集めをひきうけようとしました。ところが、ムーミンママはおこっていいました。

「これはわたしの仕事よ。わたしだって遊びたいわ」

 

ママが怒るのは当然の話で、ママはパパの良くない家父長らしさの一番の被害者なのだ。

まず、ムーミン谷から孤島への引っ越しで、パパはママに荷物を持たせない。でも花だけは持たせる。荷物を代わりに持つということは優しさに見えもするけど、ママから仕事を奪う、自分でできることすらもさせない、ということは自主性を奪うということ、行動力を奪うということだ。そのくせ、女性に「花」という愛でるだけのもの、お飾りを持つことだけは任せるというのもいただけない。

 

ママはホームシックになり、家の壁に絵を描き始める。絵を描くという行為は自分の内面と向き合う行為で、ママはそれに没頭するうちに絵の中に入り込んでしまう。外での仕事を奪われ、花を渡されお飾りでいることを押しつけられ、そうこうしている内に自分で描いた絵、内面世界と一体化し外界を遮断してしまうというのは読んでいて胸が痛くなる。しかしそれでは終わらない。さらに胸を痛くさせるのは、ママが行方不明になって探し回るムーミン一家だったが、外を探し終わり家に帰るとそこにはママが戻ってきていて、そのママにパパが言った言葉だ。

 

「しかし、おまえ、わしたちをこんなにまでおどろかすのは、よくないね。わしたちが夕がた家に帰ってくると、おまえはいつもここにいるしこういうきまりになっているんだ。それをよくおぼえていなさい」

 

ひ、酷い。ママのことをママの心情を何も理解していない。家出して帰って来た妻にいうセリフじゃない。

 

どうやらパパの中には家長としての役割、妻としての役割、きまり等がしっかりあり、それを家族に押しつけて、自分の思うようにコントロールしたい願望があるようだ。

 

すべてを自分のコントロール下に置きたいという願望は家族に対してだけではなく、海に対してもそうなよう。

 

海はちっとも規則にしたがわないのだという、もやもやとした考えが、またもどってきました。それで、急いでその考えをうちけし、海の不可思議さをつきとめて、解決してやろうと決心しました。そうすれば、パパは海がすきになれ、自尊心をたもつこともできるでしょうからね。

 

規則(自分)に従わない海の不可思議を解決することで初めて海のことを好きになれる、自分のコントロール下に置くことではじめて自尊心を保つことができ、海のことを好きになれると思うパパ。

 

「じゃあ、わしは理解する必要がないぞ!海ってやつは、すこしたちがわるいよ」

 

だけどやっぱり海を制御することは不可能で、自分の支配下におけないものはたちが悪く理解する必要がない!と切り捨てるパパ。どちらが立ち悪いのか…。

 

巻末の訳者解説によると、

この本で、ヤンソンさんは、ムーミンパパをとおして、ヨーロッパ的なおとうさんというものの心の中をえがきだしています。だから、「おとうさんというものにささげる」と最初にことわっているのです。

ということだそう。

 

ここでいう「おとうさんというもの」はヤンソンの父であり、世代的には戦争を経験し従軍した男性がモデルなのではないか。ならばその良くない男性らしさや家父長らしさは、一種の戦争後遺症のようなものだったのではないか。

困難に果敢に取り組む男らしさや集団を統率する家父長らしさが称揚され、必要になるのは戦時下ならではのものだし、集団を制御しコントロール下に置かなかれば安心できない、自尊心を保てないというのも、命がかかった戦争を経験したお父さんならではの感覚ではないだろうか。

 

ムーミンパパは海を制御することができず、海との戦いにも負けてしまう。しかし負けた末に大事な気持ちに気付く。パパはずっと前から海のことが好きだったのだ。それを制御できなくても負けても好きだった。

 

「そら、海はときにはきげんがよく、ときにはきげんがわるいが、それがどうしてなのか、だれにもわからないだろ。わしたちには、水の表面だけしか見えないからね。

ところがもし、わしたちが海をすきなら、そんなことはどうでもよくなるんだ。あばたもえくぼってわけさ……」

「じゃ、パパは、いまは海がすきなんだね」と、ムーミントロールはおずおずとききました。

「わしはいつだって海がすきだったよ」

 

パパは制御下に置いて初めて好きになると思っていたけど、もともと海のことは好きで、その好きという気持ちに気づいて初めて、制御できない姿と向き合うことができ、その姿さえも好きになれることに気付いたのだ。

 

この作品はムーミンシリーズの中でムーミン一家が出てくる最後の作品なので、パパがこれからどうなるのかはわからない。

大切な家族への思いに気付いて、これからは良くない男性らしさ良くない家父長的行動や言動が減っていくのだろうか。家族を制御下に置くのを諦め、理解不能な家族をそのまま愛していくのだろうか。

 

染みついたものはそうそう簡単には変わらないけど、ママはちゃんと戦っているし、それがちゃんと報われて欲しい。パパ自身にとっても家父長らしさ男性らしさから解き放たれた方が、もっと自由に生きられるはずだ。

 

 

 

 

42.『源氏物語 巻五』

光源氏が気持ち悪い!いや彼がそうなのは今に始まったことではなく、ずっとそうだったのがマックスに高まったというか。

今は亡き若かりし頃の恋人の娘の玉鬘に言い寄っているところもなかなかなのだが、マックスに気持ち悪いのが帖の題にもなっている蛍のエピソード。

光源氏と同じように玉鬘に懸想しているのが光源氏の弟である兵部卿だ。

 

「おびただしい光が突然見えたら、宮もお覗きになられるだろう。玉鬘の姫君をこのわたしの実の娘とお思いになっているだけで、こうまで熱心に言い寄られるのだろう。姫君の人柄や器量などが、これほど非の打ちどころもなく具わっていようとは、とても想像もお出来になるまい。実際、色ごとには熱心にちがいない宮のお心を、惑

わしてあげよう」

 

彼と玉鬘が几帳を隔てて対面しているシーンで、光源氏はその几帳をめくり蛍を放ち、その光によって玉鬘の顔を兵部卿にチラ見させる。そして玉鬘をチラ見する兵部卿チラ見される玉鬘を覗き見して楽しむ。

 

最悪だ性格が悪い。養女を覗かせて究極の覗き見趣味である。

女子更衣室に穴をあけて、それを除く男子除かれる女子を俯瞰で見て楽しむ管理人みたいな。

 

 

常夏

「全くこう暑い時はうんざりして、音楽の遊びなどもその気にならないし、かといって、何もせずに、なかなか日の暮れないのもまいってしまう。宮中にお仕えする若い人たちは、さぞ堪らないだろうね。宮中で機継も解かないあの固苦しさではね。せめて、ここでは気楽にくつろいで、近頃世間に起こったような事件で、少しは珍しくて睡気の覚めるようなことを聞かして下さい。」           

 

光源氏は今、太政大臣という最上位の官職についている。そんなものすごーく偉い地位にいて、だけど今は現役を退いている大御所に、「今宮中で起きてる面白い話をして俺の眠気を覚ましてよ」って言われるの怖い。不祥事を起こして休養中の大物芸人が自宅で開くすべらない話みたい。

 

そして相変わらず玉鬘を諦めていない。諦めていないどころか手に入れる算段を立てているのだが、その算段がとんでもない。

 

今のようにまだ男を知らない娘のうちこそ、靡かせるのはなかなかで、可哀そうでもあった。しかし、いったん結婚してしまえば、たとえ夫という関守が厳しく見張っていても、女も自然男女の情がわかりはじめてくれば、こちらでも痛々しがらずにすみ、自分の恋心を思う存分訴えて、相手にそれが通じたなら、どんなに人目が多くても忍び逢うのに支障はないだろう

 

男慣れしていない養女をまず結婚させて、男女の情をわからせたうえで、夫の目を掻い潜り自分の恋心を伝え、どうにかしようとしている。すごい。

 

 

篝火

玉鬘が養父光源氏実弟柏木との間に挟まれて身動き取れなくなっている心情が苦しい。

ちょっと離れたところで夕霧と柏木笛と筝を合奏している。それをきいた光源氏は自分の元へ二人を呼び寄せ、自分は和琴で合奏に参加する。その様子を玉鬘は御簾の中から見聞きしている。

 

御簾の中にいる玉鬘、外にいる実弟たち。兄弟は血が繋がっているとしらずに自分に懸想している。御簾の中に入ってこれる光源氏は血が繋がっていなくて自分に懸想している。

御簾の中の閉じられた世界で養父に苦しめられていると、外にいる実の家族のもとに行きたくなるが、兄弟に懸想をかけられている。中も外も苦しい。

 

 

野分

風がとても強く屏風を押し畳んでいるために、部屋の中が丸見えな日に、通りかかった夕霧が紫の上の姿を垣間見てしまう。

 

隙見している自分の顔にまで、どうしようもないほどその晴れやかさが映ってくるように思われます。紫の上の魅力にみちた美しさは、あたり一杯に、はなやかに匂いこぼれていて、たぐいまれなすばらしい御器量なのでした。

 

美しすぎてその美しさでこちらの顔が輝くってすごい。まさに太陽で私は月。

 

それから数日が経ち、朝に光源氏を訪ねた際、紫の上とのやり取りを聞くのだが、そのやりとりが、幼馴染で初恋の雲居の雁と引き裂かれている夕霧の立場からすると少々きつい。

 

「昔、若かった時だって、一度もあなたに味わわせたことのない。暁の別れですね。

今頃になって、経験なさるとは、さぞ辛いことでしょうね」

と、冗談をおっしゃって、しばらく話し合っていらっしゃるおふたりの御気配は、たいそう睦まじそうで好奇心をそそられる感じです。

 

光源氏と紫の上の仲睦まじい様子を聞いている夕霧は初恋の相手との仲を引き裂かれている。そのやり取りを聞いたあと、話の流れで夕霧は光源氏から、自分たちの仲を引き裂いた張本人である雲居の雁の父の頭中将は素晴らしい人だと光源氏が褒めているのを聞く。辛い。光源氏はわかっててやっているのか、天然なのか。

 

 

行幸

今はもう疎遠になってしまった光源氏と頭中将が再会し、ありし日の思い出に浸るシーンがきゅんとする。

ライバルでだけどギスギスしてるわけではなく、一緒に悪ふざけをしたこともある二人。あんなに良い関係だったのに偉くなった今では超えようと思えば超えられるけどそうもいかない微妙な距離ができてしまっている。

そんな二人が中年になって久しぶりに再会し、昔の思い出を語る。エモいというやつかもしれない。

でもこの二人の再会の影には玉鬘がいて、彼女は実は頭中将の娘だと知らせて彼女の処遇を相談するためのものでもある。

玉鬘の今の身の置き所のなさや苦しみを思うと、エモいだなんて言ってられない。

 

 

藤袴

玉鬘の杞憂がそのまま光源氏の生母桐壺更衣に起こったことですごい。

 

御奉公をして、もし、思いもかけず帝の御寵愛を受けたりする面倒なことにでもなり、中宮や女がそのことで、わたしをお疎みになったら、とても気まずい立場におかれるだろう。

 

思いもかけず帝のご寵愛を受けて、他の女御たちの反感や嫉妬をかい病んでしまったのが桐壺更衣だ。

もし玉鬘が宮仕えして冷泉帝に気に入られてご寵愛を受けたら。玉鬘が結婚しても自分の恋心を伝えて逢瀬を続けようとしてた光源氏との間に子供でもできてしまったら。またしても冷泉帝のような不義の子ができてしまったら、とか考えるだけでも恐ろしい。懲りてなさすぎる。

 

 

真木柱

後妻の方が身分が高くて肩身が狭くなり実家に帰る髭黒の大将の北の方(妻)。

後に、光源氏が自分より身分の高い三の宮と結婚して肩身が狭くなる紫の上への伏線のように感じる。でも紫の上には帰る実家がない。一人で耐えるしかない。切ない。紫の上の父は北の方の父でもあり二人は異母姉妹なんだけど。色々事情があって、紫の上は北の方みたいに後ろ盾がないのだ。

 

みんな光源氏と玉鬘の二人のことを、「なんかあの二人怪しくない…?」と感じているみたいだけど、それだけ勘がいい人たちなら、光源氏藤壺の密通ももっと勘づかれていたのではないか。光源氏藤壺の不義の子、冷泉帝は光源氏とそっくりだっていう描写もあるし。

 

 

梅枝

薫物合わせがあったり、書のことがあれこれ語られたりと、なかなか難しく興味が湧かない話題が長く続いたあとで、これまでずっと進展のなかった夕霧と雲居の雁の話に動きが。

この構成にグッとくる。

 

雲居の雁は夕霧一筋で夕霧みたいに他の殿方と文のやり取りとかしてなかったのだろうかと思わせるシーンが切ない。大丈夫ですか雲居の雁。夕霧結構浮気するタイプかもよ。

 

 

藤裏葉

夕霧と雲居の雁が遂に結ばれ、周りが祝福ムードになっているのが微笑ましい。

しかしやっぱり夕霧は雲居の雁一筋だったと思われているのがモヤっとする。夕霧だって他の女の子にちょっかいだしてたけど、軽くあしらわれてただけなんだよ。いいなと思った女の子に振られたから浮気できなかっただけなんだよーと思わないでもない。

この帖ではもう一組カップルが成立していて、それは明石の姫君と帝。明石の姫君が入内したのだ。お付きとして明石の君や女房たちも移り住むことになる。浮き足立つのは殿上人たちだ。

 

姫君はおごそかな威厳がおありで、誰も対抗出来ないのは言うまでもなく、奥ゆかしく優雅な雰囲気もえていらっしゃいます。

その上、どんな些細なことでも、明石の君が申し分なく上手に取り廻しておあげになりますので、殿上人なども、恋の張りあいどころとして、何よりの新しい場所が出来たと思っています。それぞれお仕えする女房たちに恋をしかけますと、そんな時の女房たちの対応のしかたまでも、明石の君は実にたしなみよく躾けてあるのでした。

 

恋のやり取りをそつなく見事にやってのける女たちが移り住んできて、楽しく遊べるぞーと浮き足立つ殿上人。近くに評判のいいキャバクラができた感じなのかな、と思ってしまった。