読書日記 良妻賢母と文学部
その結果、何らかのヒューマニズムとか人格であるとか、社会に対するある種の批評性を持つような「作者の意図」が想定されていた。つまり、社会的に価値のある「作者の意図」が想定されていたわけだ。これは、文学部がまだ女子学生の受け皿だった時代の、いわば無意識の要請でもあったのかもしれない。文学を学ぶことが良妻賢母的に人格を陶冶すると信じられていた、そして実際にそのように機能していたという意味である。
今日から読み始めたのは石原千秋『読者はどこにいるのか』
文章が読まれているとき、そこでは何が起こっているのか。
「内面の共同体」というオリジナルの視点も導入しながら、
読む/書くという営為の奥深く豊潤な世界へと読者をいざなう。
今年こそ文学論や批評やテクスト論とかそういう本いっぱい読むぞ!との意気込みのもと読み始めたのだけど、これが面白くて早速付箋が足りない。買いに行かなきゃ。
第一章を読み終った今、「文学部って花嫁学校的な存在だったの??!」という驚きと戸惑いでいっぱい。
文学論というよりフェミニズムの本読んだみたい。
「作者の意図」を読み解くことが文学部で学ぶことなら、花嫁学校である文学部を卒業した後、その「作者の意図」を読み解く技術は、「夫の意図」を読み解く技術にスライドしていくだろう。それはいずれ「社会の意図」を読み解く技術になって行くだろう。「文学を学ぶことが良妻賢母的に人格を陶冶する」ってそういうことですよね。
「文学部がまだ女子学生の受け皿だった時代」というのは、「高度経済成長期にあっては日本が近代化されてサラリーマンの比率が高まり、それに伴って専業主婦率が最も高くなった」時代だというのだからそんなに遠い時代ではない。
でも話だけ聞いてると、戦後の女学校とかの話なのかなと錯覚してしまう。女性は夫に帰属するもので、夫の意図を読みそれに従い、そうした態度によって社会に貢献するという古い女性像が思ったより古くなくて、しかもそうした女性を育成するのに文学が関わっていたとは。
これは最近ツイッターで炎上していた「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」っていう言を連想させる。
それほどに女に必要な勉強は良妻賢母になるための勉強だけど、あとはお遊びとされているんだな。今も昔もだいぶ昔も。