本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『TRY48』中森明夫

中森明夫『TRY48』は寺山修司が令和の今も生きていたら、アイドルをプロデュースしたら、どんなアイドルになるのか?どんな活動をするか?史実の寺山と彼が巻き起こしたことをベースに、中森明夫が寺山を復活させ現代に解き放つ小説である。

 

寺山修司」と聞いてどんなイメージが浮かぶだろうか。

この小説の主人公、深井百合子は、寺山がプロデュースするアイドルグループTRY48のオーディションを受ける前に、寺山の情報を仕入れようとサブカル部に行き、そこでウザケンというOBに、寺山に興味があるなんて「何、君、もしかしてメンヘラー?ゴスロリ摂食障害自傷系?球体関節人形がいっぱいの部屋に引きこもって、抗うつ剤飲んで、自分探しして、毎日、リストカットしてる?」と畳み掛けられる。

た、たしかに寺山修司にはそんなイメージがある…。ちょっとおどろおどろしく、痛々しく、距離を置きたい。そんな感じ。なのでこの小説を読むのにも少し抵抗があった。だけど安心してほしい。確かにウザケンが言っていたような寺山的個性のキャラクターはTRY48のメンバーにもいるし、中森版寺山もめちゃめちゃしているのだが、そのめちゃめちゃが故にポップな仕上がりで先の展開が気になり、そのめちゃめちゃに読者も巻き込まれようにページが進んでいく、読む前の抵抗なんて弾き飛んでしまう小説だった。

 

そのめちゃめちゃとは一体どういったものか。

ここで書かれている寺山修司は、実際に寺山が起こした騒動は現代に置き換えるとどういったものになるのかという、史実に基づいた創作だ。

寺山修司が『あしたのジョー力石徹の葬式を開けば、中森版寺山は『デスノート』Lの葬式を開き、寺山修司が任意の民家に押し入りそこでゲリラ演劇をすれば、中森版寺山はTRY48を「会いに行くアイドル」として任意の民家に押し入りゲリラライブをし、寺山修司が舞台上の観客を指差し罵倒する『観客罵倒』に影響を受ければ、中森版寺山はTRY48にステージ上でアイドルオタク罵倒をさせる。

 

『TRY48』という小説はこんな風に実際に寺山修司が起こした騒動や事件を中森明夫がリメイクコラージュして出来上がった小説だが、寺山修司その人も彼が作り出した作品も、他者や他者の作品をリメイクコラージュしてできたものである。

観客罵倒の元ネタはドイツの劇作家ペーター・ハントケの演劇だし、寺山修司が世にでるきっかけになった短歌も著名な俳人の作品や自身が過去に作った俳句を切り貼りしたものだ。

言わば中森版寺山は、元々がリメイクコラージュでできた史実寺山の更にリメイクコラージュで作り出された子供のような存在だ。そして更にもう一人、その中森版寺山をリメイクコラージュしてできた子供のような存在がいる。百合子と共にTRY48の悪魔セブンの一員であるサブコがそれだ。

 

サブコは百合子が寺山の情報を仕入れに行ったサブカル部で出会った、赤縁メガネのインテリオタク女子で、百合子に寺山修司とはなんたるかをプレゼンするウザケンを「浅い!」と罵倒し、百合子を奥深く寺山修司の世界へ引きづりこみ、TRY48合格へ向けて百合子を支える黒子となる存在だ。

ウザケンを浅いと罵倒しただけあり、彼女は寺山だけに留まらず海外アーティストや精神分析などにも造詣が深く、様々な角度から縦横無尽に寺山について論じてみせる。

その手腕たるや、百合子について行ったTRY48のオーディションで寺山と対等に渡り合うどころか、寺山をたじろがせ出て行けと言わせるほど。そうして図らずも寺山を論破した形になったサブコだが、オーディションをぶち壊しにされた百合子からしたらたまったものではない。

百合子は自分のことを何も取り柄のない、だけど少しは可愛い見た目をしていると思っており、そのなけなしの長所を生かしてアイドルになる夢を持つが、その夢も、何も取り柄がない自分とは対極に位置するようなサブコの行動によって危機に陥る。

 

サブコは百合子のコンプレックスを刺激する存在だが、それはサブコにとっての百合子もそうだ。

サブコは自分のことを知識と理屈だけのAIのようなものだと思っている。ウザケンのことを浅いと罵倒したサブコだが、どれだけ知識を深めても、それは他者の知識理屈のコラージュでしかなく空虚で、そもそも浅い深いの対立が無意味なのだ。深くても空虚があるだけで意味がない。

だからサブコにはまだ何も入っていない器である百合子が、知識や理屈がそもそも入っていない百合子の空虚が輝いて見える。

 

そうして、サブコと百合子は自分の中にないものを、相手の中に見出し、互いにその美点を煌めかせていくように共闘していくことになるのだが、果たして「何もない」はいつまで美点で居られるだろうか。

何も持たない存在は確かに輝いて見えるが、ずっと何もないままではいられないし、何もないことを褒めそやし崇めることはロリコン親父に感じる気持ち悪さがうっすら漂う。

だから私は、知識や理屈や観念もない、個性も才能も特技もない、輝きもきらめきもない百合子がこれからどんな風に自分を染め上げていくのか、アイドルとしてどんな風に成長し、自分の個性を見つけていくのかを見ていたくなった。

 

サブコと百合子が教えてくれたのは、まずは「何もない」を祝福することからはじめること、そして自分という器に何を入れるか自覚的であること。不必要だと思うもの、もう自分のものではないと思ったものは捨てていくこと、塗り替えていくことの重要性だ。

 

父親殺しならぬ寺山殺しを見事果たしたTRY48はこれからどこへ向かうのか。

もちろんそんなアイドルグループは現実に存在しない。彼女らの活動をこれから先目撃することもない。しかしだからこそ、彼女らはその虚構性によって現実のアイドル界を照射し、その不在によって自らも輝くアイドルになった。

彼女らに会えるのはこの『TRY48』という小説の中でだけ。彼女らの始まりにして終わりのきらめきをぜひ目撃してほしい。

 

 

TRY48

TRY48

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読書日記『哲学者たちの天球』

『哲学者たちの天球』という、アリストテレス哲学がどのように広まっていったのか、どのように解釈されていたかということが書かれている本を読んだ。

ちょっと正直後半は難しすぎて返却期限までに読み終えることはできず、図書館に返してしまったのだけど、こうした難しい本に良くある「わかるところはわかるし面白い」本だった。

 

「天が生きている」とか「天は魂を有している」とか言われると、絵本の世界的なファンタジックなイメージを描いてしまうけど、当時のひとはそれを大真面目に考えていて、なぜ「天が生きている」のか理屈付けている。ひとつひとつ論理的に説明されると、なんとなくそう考えるのも間違ってはいないように思えてきて、でやっぱりそれはちょっと無理があるのでは?という部分も出てきて、それもそれで面白い。人間って色んなこと考えるなぁ。

 

そんな中で、アリストテレス主義の中での「魂」の基本的理解というのが出てきて、それによると「魂」は、

①「植物的魂(anima vegetativa)(=栄養摂取・成長能力)」

②「感覚的魂(anima sensitiva)(=感覚)」

③「理性的魂(anima rationalis)(=知性)」

の三つに区分される。

 

魂ってもっと感情とか念とかそんなものが多分に含まれているものだと思ってたな、と読み進めていたら、出てきたのがこの一節。

 

月下界の生きものの魂は、例えば情念などの「より不完全」なはたらきをもっているのに対して、天体にはそのような不完全な魂のはたらきは見られないという。

 

一応魂には私が思っていたような感情や念的なもののはたらきはあるらしいけど、それは不完全なものらしく、あまりよろしいものだとは考えられてなさそう。

 

感受性が豊かであることはいいことで、いい創作者の素質があり、感情豊かに日々を過ごしている人は素敵な人だなんて思ってしまう。だけどそれはその感受性が豊かな人の考えではなく、その人の周囲にいてその感情から生まれたもの、創作物や愛や憐憫の情の恩恵を受けている人だからこそそう思えるもので、感情を動かしている動かされている人からしたら、疲れるものでしかないのかもしれない。

 

情念に惑わされるということは不完全で、何にも気持ちが動かされないことが完全、というのは、感情も持つことの疲れとかそこから抜け出すことで平穏を得たいという人間の気持ちがうっすらと垣間見える。

仏教の煩悩を捨てなさいとか、解脱って考え方とかも結局、それが憎むことであれ、愛することであれ、何にも気持ちを動かされたくない人間の心が生み出したもののようにみえてくる。

 

 

 

読書日記 「卒業の終わり」

私たちはずっとあそこにいた。生まれてからずっと同じ場所で暮らしていた私たちには、何かが過去になるという感覚はまだわからなかった。戻れない場所が、戻れない時があるという感覚がわからなかった。

あの頃の私たちに、思い出と言うべきものはまだひとつもなかった。すべて現在だった。

 

『無垢なる花たちのためのユートピア』を読んだ。短編集で、表題作の美しさ、見てはいけないようなものを見てしまったけれどもそれが例えようもなく美しくて心惹かれてしまって怖いような、触れたら血が流れそうな残酷な美しさも良かったし、他の短編もそれなりの良さがあったのだけど、最後の短編「卒業の終わり」が傑作すぎた。

 

『わたしを離さないで』が思い浮かぶようなディストピアであり、フェミニズムでもシスターフッドでもあるけど今まで読んできたそうした小説の中でも群を抜いていた。泣いてしまった。酷すぎて辛くて泣きそうになっているところにタイトルの意味を解き明かすシーンが来て涙した。

 

物語は主人公の雲雀草が生まれた時からそこで暮らしている全寮制の女学園パートと、そこを卒業して外の世界で社会人として働くパートに分かれている。

 

私が涙したのは、女学園時代では隠されていたけど、社会に出ることによって、本当の自分たちの役割が明かされていく様子が辛くて、でもそこに微かな希望が見え始めた後半パートだったけど、前半の女学校パートもなかなか辛いものがあった。

雲雀草と雲雀草の初めての友達でいつも一緒にいる雨椿との共依存的友情は読んでいて辛かった。

 

かけがえのない存在とか、かえのきかない存在とかいうけれど、それは美しいものだとされているけれど、それって一歩間違えれば地獄で、風通りを良くしておかないとすぐに淀んでいってしまう。

 

雲雀草にはかろうじて月魚という、雨椿とは違ったタイプの友達がいたからよかったのかもしれない。でも雨椿には。

 

かけがえのない存在って怖い。そう思うのも思われるのも。

 

全体重をそんな存在にかけてしまわないようにするためにも、保険ではないけど、代替品ではないけど、もうひとつふたつ用意しておいて分散させないと。

それよりなにより、自立していないと。きちんとひとりでいることができないと。

 

 

 

佐藤厚志『荒地の家族』 〜想像力は人を救うのか〜

元は鬱蒼とした松林であった野を新しくつるりとした道路が切り裂いている。荒涼として寒々しく、無機質な海辺を雨が塗り込めて想像力を殺す。

 

『荒地の家族』の主人公坂井祐治は宮城県の亘理で生れ育ち、地元で一人植木業を営んでいる。震災時、自身も含め家族の人的被害はなかったものの、妻晴海は、その二年後流感にかかり亡くなってしまう。その後再婚した知加子は家を出て行き、今は多感な時期に入り始めた小学六年生の息子啓太と母和子の三人暮らしだ。

 

家族は無事だったものの、震災は故郷に多くの被害をもたらした。年月が経ち、復興は進んでいるが、新しく様変わりした町は、様変わりしたことによって震災当時や以前の記憶を誘発させる。

そんな町を通り抜け、祐治は時たま海を見に行く。海は全てを攫っていった元凶であるのにも関わらず。引用はその場面からで、祐治は海に圧倒されているかのようにみえる。

 

祐治がわざわざ海を見に行くのは想像力を殺されにいくためであるかのようだ。ありえたかもしれない過去や現在を想像し、苦しむことから逃げるために。悲劇の真っ只中にいる時、想像力の働く余地はなく、ただ苦痛が、苦悩があるだけで、希望もなければ悔恨もない。

 

とはいえ、祐治は雨の日に啓太を学校まで送りに行く際、啓太が嫌がるにも関わらず、仕事用の軽トラで昇降口ギリギリまで乗り付け、生徒の注目を浴びさせてしまったり、家を出て行きその後会おうとしない知加子の職場まで何度も押しかけたりと、元々想像力がある訳ではない。

 

想像力があったせいで悔恨に苦しんでいたのは明夫という祐治の幼馴染だ。震災前、自身の酒癖のせいで夫婦仲が上手くいかず、妻は子を連れて実家に帰り、その直後津波に巻き込まれてしまう。自身の酒癖のせいであると感じつつも酒を飲み続けることをやめられず、彼はありえたかもしれない過去と現在に囚われ今目の前にある現在を生きることから逃げている。酒をやめていれば妻子は津波の被害に合わなかったかもしれないというありえた過去、今も家族一緒にいたかもしれないという想像上の現在に囚われ、今ある現在から逃げている。

痛みで心が麻痺している間は立ち直る努力をせずにすむ。

自分を痛めつけるように祐治は海を見に行き、明夫は酒を飲む。

 

年月が経つにつれ復興が進み、震災の記憶が薄れていくことを忌逃するように海を見にいくそんな祐治でも、時間が持つ治癒能力には抗えないのか、徐々に想像力が芽生えていく。避難する車列のずっと後ろにいた人についてや、知加子が何に苦しみどう自分に助けを求めていたのかに想像が働くようになっていく。

悲劇にただ圧倒され言葉をなくし立ち尽くす時を過ぎ、ありえたかもしれない過去や現在を突きつけられ、それでも今しかない、今目の前にあるたったひとつの現在を生きることができるようになって初めて、人は悲惨な体験から立ち直ることができるのではないか。

最後の場面で祐治が目にしたものは、今現在の自分の姿であり、今目の前にいる人だった。

 

 

 

読書日記『野原』


昨日から読み始めたローベルト・ゼーダーラー『野原』がとてもいい。墓地のベンチに座って、死者の声を聞く男。その男が聞いている話として、その町に生きた29人それぞれの生前の生活や、人生のターニングポイントや、取るに足らない出来事だけど強固に記憶に刻まれている出来事、そんな日々の断片で人生の深淵が、短編小説や賞編小説のように語られる。

私は私の中にしかいられないし、私の人生に囚われているので、そこから逃げたくて、誰か他の人の人生を覗きたくなる。
自分ではない人の人生を覗いて追体験することは、自分と自分の人生からの解放で、そこで私はちょっと自由になれる。でもそこで、私の中にもあるような鬱屈や失望や疲労を感じたり、私自身の人生でも経験のある出来事が鮮やかに書かれていたりすると安心する。
自分に囚われていてそこから解放されて自由になりたかったはずなのに、誰か他の人の人生の中に、自分との共通点を見つけて安心するのだ。

自由と安心というのは相反するもので、どちらか一方を手にすればどちらかを諦めなければいけないものなのかもしれない。
だけどこの本の中では不思議と共生している。
だからとても居心地がいい。

 

 

 

 

読書日記『モヤモヤの日々』

僕は、「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」というものがこの世にあると思っている。いや、もしかしたら僕だけなのかもしれないが、「お、この作品すごく面白い」と思ったとしても、どこか自分のセンスに自信が持てず、「他に誰か褒めてるかな?」なんて検索してみたくなる。僕の思う「センスのいい人」が褒めていれば、「これは間違いない」と安心して紹介できる。僕もそれなりに本を読んでいるほうだとは思う。でも、ついつい他人の評価に依拠したいと思ってしまう弱さがあるのだ。

 

 

 

 

三宅香帆さんが光文社新書noteで連載している「失われた絶版本を求めて」の第3回と第4回で、「面白くない本を面白くないって言いづらくなってるよね」って話をしていて、確かに言いづらいよね自分の「面白くない」という感覚をなんか信用できないんだよねと思ったけど、宮崎智之さんの『モヤモヤの日々』を読んでいたら、宮崎さんは「面白い本を面白いって言いにくい」って話をしていた。

 

わたしは、「面白い!好き!」と思ったものは、後先考えることなく、褒めてしまうけど、「面白くない!嫌い!」と思ったものに関しては、そう言葉にすることを躊躇してしまう。

この違いは何かというと、自分の感じる「好き!」という感覚に絶大な信頼を寄せているけど、「嫌い!」という感覚には自信がない、というものだと思う。

 

「面白いなぁ好きだなぁ」と思ったら、他の誰が褒めてなくても褒めてしまう。むしろ誰も褒めてないものを褒めるのはパイオニアみたいで楽しい。それを否定する人がいたとしても、「わたしが良いと思うものは良い!」と謎の自信を発揮し、なんなら「この良さをわからないなんてもったいないなぁ」と偉そうにも思ってる。だから、それとは逆に「面白くないなぁ嫌いだなぁ」と思うものは、「わたしがこの作品の良さを見つけられてないだけかもしれない」と自信がなくなる。何かを面白がれるかどうか、良いと思えるかどうかって、感性の問題だけじゃなくて、知識とか教養とか目の付け所の良し悪し、審美眼が関わって来ると思っているから、だから「今のわたしにはこの作品を面白がれるだけの力量がないだけかも…」という留保でもって、「面白くない!」と言うことができない。

でもそれって、本当なら面白くもないものを、わたしの知識と教養がなくて目の付け所が悪く、審美眼がないから、「面白い!好き!」と思ってるだけかもしれないってことでもある。そんな疑いを持つことなく「面白い!好き!」と言ってしまうのはなんでなんだろう。浅はかなんだろうか。

そうやって考えだすとだんだんと「面白い!」とも「面白くない!」とも言いづらくなっていってしまう。

結局「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」は人によって「誰かが貶していなければ貶しにくい問題」になるだけで、根底は同じだ。

自分が自分だけの価値観を持って、作品を評価するなんてことが途方もなく難しいことにみえてくる。

 

うーん。でも改めて今まで自分がいい作品だと思ったものを思い出してみても、いい作品だったなぁ、と読んだ時観た時の感動が蘇ってくる。そう感じた自分の感覚を疑うことは難しい。

だから変な話、「面白くない!」と堂々と言ってみたい。そう感じた自分の感覚を信じて。でもやっぱり難しい。絶対どこかにはわたしの「面白くない!」はあるはずだと思うけれど。

 

 

自分は本当は面白くないと思っている本のことも、肯定してしまい、高評価をつけてしまうと、自分の審美眼を曇る。そうしているうちに、自分がどんな作品が好きで、面白いと思うのか、自分の輪郭がどんどん分からなくなってしまう。するとなんとなく世間や他人の評価に忖度するようになり、自分の欲望も嗜好も分からなくなるのではないか。

 

 

shinsho.kobunsha.com

 

『あの図書館の彼女たち』ジャネット・スケスリン・チャールズ

「わたしたちは本の友ね」彼女は、〝空は青い〟とか〝パリは世界一の街だ〟というような、確信のある口調で言った。わたしは心の友については懐疑的だが、本の友は信じることができた。

 

物語は、1939年パリ、オディールが図書館での仕事を得ようと、本の分類法を唱えながら面接へ向かうシーンから始まる。

デューイ十進法では図書館にある本全てを分類し、全ての本に数字を当てはめる。学校で習ったそんな知識を復習しつつ面接に向かった彼女だけれど、結局面接を有利に進め採用に至ったのはそんな知識だけでなく、何にも分類されない本への愛、どんな知識にも負けない本への信頼だった。

読み始めてすぐにこの物語のことを好きになった。冒頭だけでなく、この本はずっと本への愛と信頼が溢れていた。

 

オディールは「女性は家庭にいるべき」という父親の反対を押し切り、図書館で司書として働く。仕事をする働くということは、社会との接点を持ち、本の世界から飛び出し、現実を知るということでもある。

当然本に書かれているようにうまくいかないこともある、本で得た知識が役に立たないこともある。

だからといって本の価値が下がるわけではない。つらい現実に寄り添ってくれる本、忘れさせてくれる本、癒してくれる本がある。

 

オディールの人生がどんなに波乱でも、やがて戦争が始まり、彼女を取り巻く世界が大きく変わっていっても、彼女の中には、寛大な付添人として本がいた。

ナチス支配下のパリで人々に寄り添う本を守り、図書館に来ることができなくなった人々に危険を犯してでも本を届け続けた、オディールや同僚たちは、本の持つ力を誰よりも知っていたし、本を愛し信頼していた。

この物語は事実に基づいている部分も多くあり、オディールのような司書も実在していたようだ。

読めばさらに本への愛が深まるこの物語をたくさんの人に読んで欲しい。

 

「誰にでも、決定的に自分を変えた本というものがあります」わたしは言った。「自分が独りぼっちじゃないと教えてくれる本です。あなたの場合はなんですか?」