本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記『革命的半ズボン主義宣言』

さて、世の中は減点法です。エリートの挫折でお分かりでしょうが、この減点法は”思い込みによる持ち点制度”が前提になっています。大学に入れば会社に行くのが当然。会社に入ればある程度以上の出世は当然。いい大学に入ればある程度以上の出世は当然。全部思い込みです。

 

橋本治『革命的半ズボン主義宣言』を読んだ。読もうと思ったきっかけは、内田樹小田嶋隆について書いた記事に、『革命的半ズボン主義宣言』が小田嶋を高く評価していたことと、この本の要約を書いていたのを読んで、面白そうと思ったからだ。

でも読んだ結果難しくてぼんやりとしかわからなくて、要約を読んだときの「面白そう!」というワクワクを超えることはなかった。難しい本を読んだ時あるあるすぎる。

 

橋本治の本は何冊か読んでいるけど、わかるときはわかって「面白い!」となるんだけど、結構あけすけだったり、アクロバティックな話の流れで、ややこしいように思えて実は単純な話なんだよ、といってるところばかり「面白い!」と思ってる気がする。だから、「本当か?」と疑ってしまう。頭の悪い私は、わかりやすい話に飛びついて、わかった気になって面白がってるだけなのでは?騙されてるのでは?と疑心暗鬼になるのだ。

 

でも上に引用した部分は心置き無く納得できる。

普通という標準点、当然という基準点があるから、そこに当てはまらない人達はどんどん減点されていくのだ。

みんな違ってみんないいとか、多様性だとかが叫ばれる世の中だけど、それはみんな「世の中は減点法」へのアンチテーゼなんだ。

やっぱり橋本治はみんながぐだぐだ言ったり、あーだこーだ言ってる中を、すごくシンプルにずばっとまとめるのがうまいんだろうな。

 

 

www.gqjapan.jp

 

革命的半ズボン主義宣言 (河出文庫) | 橋本 治 |本 | 通販 | Amazon

 

読書日記『水中の哲学者たち』

昔見かけた目つきの悪い彼も、身軽に自身の考えを刷新していくサルトルも、ただ謙虚であるとか、自分の意見にこだわりがないとかではなく、自分の立場よりも真理をケアし、異なる考えを引き受けて、考えを発展していたのである。だからこそ、弁証法の場では、わたしは取るに足らないちっぽけな存在ではなく、真理に貢献するひととして扱われる。真理に近づくため、必要な存在となる。

 

哲学研究者永井玲衣によるエッセイ。面白かった。学者さんの書くエッセイって面白い。自分の研究と日常がいかに関係しているか書いてくれていて、わたしが普段感じていることや生活と通じるものがあるなぁと思えて面白い。

 

引用した部分は哲学的な会話をしていく上で自分の考えを恐れないで欲しいと永井さんの先生が言ったことについての部分。

「自分の立場より真理をケアして異なる立場を引き出し考えを発展させる」ってかっこよすぎないですか。自分の立場より真理をケアするんだけど、自分の存在はちっぽけなものではなく真理に近づくために必要な存在っていうとこも痺れる。

 

自分の真理を胸に抱くことは大事なことだけど、それはどこかに存在する世界の真理に比べたら小さいもので、間違ったものかもしれない。だから間違いを認めることや変わることを恐れずにいたい。自分が思う真理を大事にしつつ、他者や世界の真理の前では謙虚でいたい。自分なんてちっぽけなものだと知りつつ、真理に必要なちっぽけなのだと誇っていたい。

真理の前に謙虚でありつつ、自分を誇ることもできるような、そんなしなやかさが必要だ。

 

 

 

『プリズム』ソン・ウォンピョン

たいていの場合、始まりは違っても過程は似ていて、結果はいつも同じものだから。ジェインはそう軽く結論を出して、しばらく

日常の中に浸って過ごした。その時までは、人生に違う種類の波が立つなんて全く想像もできなかった。

 

『アーモンド』で2020年本屋大賞翻訳小説部門第1位を受賞し、第2作の『三十の反撃』でも2022年の本屋大賞翻訳部門第1位を受賞したソン・ウォンピョンが大人の恋愛小説を書いたいうので思わず飛びついた。

『アーモンド』も良かったけど、『三十の反撃』はもっと良くて、だから期待大で読み始めたけど、やっぱり良かった。

内容がいいのはもちろん、文章が綺麗でうっとりしてしまう。形容詞の使い方というか物事を形容する筆致が美しくて鮮やかでちょっと切なくて好き。

 

内容は4人の男女の恋愛もので、作者としては現実だったらあまり仲良くなれなかったと思う4人だそうだけど、私としては、誰かと関係は持ちつつ絶妙な距離感でどこか冷めているジェインと、心にしっかりと鍵をかけて誰とも関係を築くことのないホゲに肩入れしつつ読んだ。

私も現実だったら仲良くなれるかどうかはわからないけど。でもジェインだったら、そこそこいい距離感で友達やれる気がする。

 

様々な経験をして、恋愛パターンもわかるようになって、いつもの恋愛パターンだからうまくいかないことを知ってても、結局いつもと同じことをして同じ結果になる。

 

いつものパターンだからどうせうまくいかないとわかっているから、それを変えようとあえて真逆をいってもうまくいかない。

 

いい加減自分のこともわかるようになって、自分はこういう人間なんだと思っていても、ふと自分の知らなかった自分に出会うこともあって、だけどそれで新しい世界が開けてうまくいくかと思えばそうでもない。

 

知ってても知らなくてもなんにもならない。経験なんて役に立たない。


経験を重ねれば重ねるだけ無意味な傷が増えるだけのようだ。ある程度経験を重ねてしまった大人の停滞期。

 

でも同じに見えても全く同じ恋なんてないし、全く同じ傷なんてない。

それは同じようなものを重ねて重ねてそれを繰り返さないと気づかないことでもあるけど。


たくさん傷ついても諦めず、同じように見えるでもひとつずつ違う沢山の経験を重ねた先で、ふっと見える新しい自分がいて、新しい出会いがある。

沢山傷ついて乗り越えて、同じような日々を繰り返し、時に停滞してそれでも日々を重ねた先にある変わったものと変わらないもの。
大人の恋愛小説だったけど、大人の成長物語でもあった。

 

ソン・ウォンピョンは『アーモンド』ばかりが注目されていて『三十の反撃』もこの『プリズム』は目立ってないけど、どれもいいのでもっと読まれて欲しい。

 

 

 

 

 

bookbookpassepartout.hatenablog.com

 

読書日記『韓国文学の中心にあるもの』

斎藤真理子さんの『韓国文学の中心にあるもの』を読み始めた。

斎藤さんは韓国文学ブームの火付け役となった『82年生まれキム・ジヨン』を訳された翻訳家さんだ。その後も次々に素晴らしい作品を訳し、たくさんの小説を日本に紹介してくれて、個人的には日本の韓国文学シーンになくてはならない神様みたいな人だと思う。

 

この本はその斎藤さんが、なぜ韓国文学が日本の人々にここまで受け入れられたのか、その魅力やそれが生まれる背景となった、韓国の歴史や社会情勢を丁寧に説明してくれている。

発売前から、韓国文学の神様みたいな斎藤さんが、そんな本を出してくれるなんて買うしかない!と楽しみにしていた。

 

第1章は「キム・ジヨンが私たちにくれたもの」という章タイトルで、『82年生まれ、キム・ジヨン』が生まれた背景と読者に与えた影響を丁寧に紐解いている。

 

斎藤さんが書いているところによると、『キム・ジヨン』はフェミニズム文学のベストセラーとなり、女性が今までに感じていた理不尽や悔しさを書いて共感を得ただけでなく、女性たちがそれまで気づかなかった差別を生む社会構造を指摘し、覚醒を促したという功績も大きいようだ。

 

著者が訴えたいのは、どんな家族に恵まれていても社会のシステムに問題がある限り、個人の性格や努力だけで解決はできないという点だからである。

 

二〇一八年に日本に降臨したキム・ジヨンは、何よりも「社会構造が差別を作り出している」「自分は、その構造によって規制を受けている、当事者そのものだ」という覚醒を、多くの読者にもたらした。

 

しかし、個人の努力が足りないんじゃない!社会の構造のせいだ!と覚醒させたのが『82年生まれ、キム・ジヨン』という物語ならば、社会のせいにするな!個人の努力があれば成功できる!と夢見させたのも物語じゃないのか。

 

世の中には今も昔もサクセスストーリーで溢れていて、どの時代でも一定の人気があって、そのどれもが主人公が努力を重ね、周囲に認められ評価され、成り上がって行くストーリーで、努力の素晴らしさを描いている。

主人公が様々な困難を乗り越えて成長し、成功していくストーリーは見るものに希望を与えてくれるし、自分も努力すれば夢が叶うのではないかという気持ちになって、勇気をもらえる。

 

でも勇気をもらって努力したところで、現実では主人公と同じようには成功できない。社会構造はそんな風にできていないのだ。

 

差別や不平等を生み出す社会構造は、サクセスストーリーには描かれていなくて、努力の素晴らしさだけ描くなんて、そりゃあ夢がある。

 

しかしサクセスストーリーの主人公たちはみんな、本当に自分の努力だけで成功していったのだろうか。大多数の人々が感情移入し、夢を抱くことができるような人物、特別なところのない平凡な人物なのだろうか。

 

よくよく考えてみると違うような気がしてくる…。

 

主人公には自分でも気づいてない才能があって、偶然の出会いで権力者にそれを見出され、努力が報われる場所に引き出してもらっていたりする。なにも才能がないとしても、特権階級にある人を偶然助けたことによって、努力が報われる舞台に立たせてもらったりするパターンもよくある。

努力が報われるという話ではあるけれど、自分の努力だけで成り上がっている訳ではない。ように思える。

 

サクセスストーリーの一種でもあるシンデレラストーリーのシンデレラにしたってそうだ。

ディズニーのアニメ映画『シンデレラ』でシンデレラは義姉と共に舞踏会に行くことを許され、ネズミや鳥と共にドレスを作る。忙しい家事の合間をぬって、知恵を絞って。しかしそのドレスも、舞踏会当日に、意地悪な義姉たちによってボロボロにされてしまう。そこで現れるのが魔法使いフェアリーゴッドマザーだ。フェアリーゴッドマザーの魔法によって新しいドレスを手に入れたシンデレラは、無事に舞踏会に出席しそこで王子に見初められ、ハッピーエンドを迎える。

 

もし義姉の意地悪がなかったとしたらどうなっていただろうか。シンデレラが自分の手作りドレスで王子と会っていたらどうなっていたのか考えずにはいられない。

映画だからファンタジーだから、魔法の描写があったほうがシーンが盛り上がるというのもわかるし、意地悪をされてシンデレラを酷い目に遭わせるのも物語のエッセンスとして大事なのはわかるけど、魔法を介在させずに、ネズミや鳥の助けを借りつつもシンデレラが自分の力で作り上げた王子にあっていたらどうなっていただろうか。

 

結局シンデレラ個人がどう頑張っても、どんな努力を重ねても無駄で、階級差は超えられないから魔法を介在させたのではないかと勘ぐってしまう。

 

そんな意図がないとしても、そう考えると、『シンデレラ』は非常にいい塩梅でできている夢物語だ。

シンデレラが自分の努力だけでのし上がって王子に見初められるのでは、あまりに夢物語すぎて「そんなことある?」という疑問が頭をよぎりそうだ。

魔法のドレスで王子に見初められるという完全な夢物語の方が、冷静に現実を省みることなく、でも程よく夢が見られるいい。

 

「個人の努力が足りないんじゃない社会の構造のせいだ!」といったって、それは本当のことなのかもしれないけど、私たちは「環境や人のせいにするな!努力すれば夢は叶う!」というサクセスストーリーばかり見せられてきた。

でもそのサクセスストーリーにもうっすらと、でもしっかりと差別を生み出す社会構造は描かれていたのだ。

恐ろしい。やり口が汚い。

 

韓国文学から、『82年生まれ、キム・ジヨン』からだいぶ話はそれてしまったけど、『韓国文学の中心にあるもの』を読んでいて、そんなことを考えた。

 

 

 

ディズニープリンセスについては他にも、過去のこの記事でムーランとアナ雪について書いています。

↓↓↓

bookbookpassepartout.hatenablog.com

 

 

『差別はたいてい悪意のない人がする』 キム・ジヘ

ほとんどの善良な市民にとって、だれかを差別したり、差別に加担したりすることは、いかなるかたちであれ、道徳的に許されないことである。差別が存在しないという思い込みは、もしかしたら、自分が差別などする人ではないことを望む、切実な願望のあらわれかもしれない。

 

 

差別をされたり偏見を受けたりした人の気持ちとか立場とか、どんなことをされて嫌だったとか傷ついたとか、そういうこと知っておきたいなと思う。

自分が差別をされてモヤモヤして、そのモヤモヤを言語化して出どころを明らかにしたいから、というわけじゃない。

そうして傷ついてきた人に寄り添いたい、という気持ちも少しはあるけど、何か嘘くさいというか綺麗事すぎる気がする。

 

たぶん自分が差別する側偏見を持つ側になって加害者になるのが嫌なんだろうな、と思って、そこから深くは考えたことはなかった。

でもこの本を読んでいるうちに、加害者になるのが、嫌なのは嫌なんだけど、それだけじゃなく、もっともっと自己中心的な理由で差別や偏見について知りたいのかもしれないと気づいてしまった。

 

自分が持ってる差別や偏見に人前で指摘され、恥をかきたくない、差別者だと思われたくない。

平等な考えを持って差別者を糾弾したい、圧倒的な正しさで誰かを論破したい。

差別や偏見を受けてる人にとっての良き理解者になって役立ちたい、そうすることによって他者から必要とされる存在になりたい。

 

そう思ってるだけなんじゃないかと、恐ろしくなった。

 

マジョリティの人々が差別はいけないよねという時、こうした思いは微塵もないんだろうか。

今はみんな差別や偏見に敏感で、そういうことを言ったりしたりすると、周りから批判を受けやすい。

だから敏感になってるだけで、本当に当事者のことを考えている人、思いを寄せている人はどれくらいいるんだろうか。

 

マジョリティが、差別や偏見はいけない、マイノリティにももっと目を向けなくてはといっても、それはそうしないと自分がマジョリティから弾かれるから、マイノリティに目を向けないとマジョリティの中での場所を失うから、というだけなのではないか。

 

どこまでも自己中心的というかマジョリティ中心だなと思って、げんなりする、がっかりする。それは自己嫌悪でもある。

 

マジョリティが自分のマジョリティ内での地位を守るために、マイノリティに理解を示すとか味方でいるというやり方ではなく、本当にマイノリティのためだけを考えて味方でいるなんてできるんだろうか。

 

 

 

読書日記『蓮と刀』

答えは簡単━━フロイト自身、それを危険だと思わなかったから。危険だと思う必要がなかったから。彼には、それに関して疚しい所が一つもなかったから。平気でそれを口に出来たから。彼は母親と性行をしたいと思ったことなど、幼児期から始めて、一度もなかったことを、自分でチャーンと知っていたから。性行したくないどころの騒ぎではない、彼は、母親なんか死んだって一向に構わないと思っていた。

 

書評家の三宅香帆さんが絶版本を紹介する連載を始めて、それの第一回目に取り上げられていた橋本治の『蓮と刀』を読み始めた。

これがまぁもう難しい。

橋本治フロイトの言っていることを事細かに読み解いて、フロイト自己欺瞞を暴いていくような内容なんだけど、フロイトの言ってることもわからなければ、橋本治の解説も大してわからん。ただ、橋本治が要するにフロイトが言いたいことはこれだってまとめてくれたところだけはなんとなくわかる、というレベル。

 

フロイトエディプス・コンプレックスというのを知ったのは、大学の一年生の頃だったけど、男の子は深層心理では父親を殺して母親と性行したいと思っている、というのが気持ち悪かったのはもちろん、フロイトそんなことよく言えたな?自分にもお父さんお母さんいるだろうにそこ気まずくなかったの??とも思ってずっと、フロイトの親子関係が気になっていた。

 

橋本治がいうには、フロイトはお父さんのことが嫌いで怖くて、その気持ちをどうにか理由付るために母親を引っ張ってきて、エディプス・コンプレックスを作り出したのだ、とのことだった。

 

長年の疑問がわかってすっきりしたんだけど、一方で「本当か…?」とも思ってる。

私が理解できたのはまとめの部分だけで、その途中の論理をほとんど理解してない。わかりやすいとこだけ見て、わかった!と思ってるけど大丈夫かな、と不安になる。

でも頭いい人が言ってることだから本当のことなんだろうな、とも思う。

だけど「わかりやすいとこだけ見てわかった気になる」が危ういのと同じぐらい、「自分より頭のいい人が言ってるからそれが正解」というのも危うい。

 

最近その結論に至るまでの論理展開もわかるし、結論やまとめも理解できる、そんな話ばかりに触れてきて、こんな難しい本読んでなかった。久しぶりに読んだ。

でも私の頭で全部理解できる話なんてものすごく範囲が狭い。難しい話を読んでいけば理解できる領域って広がっていくんだろうか。頭良くなりたい。理解できる話を増やしたい。

 

 

shinsho.kobunsha.com

 

 

 

 

三宅さんが紹介した本を読んで「む、難しい…」と思うのは何度目だろう…。

『時間の比較社会学』も『成熟と喪失』もそうで、その度にこれを読める三宅さんすごい!と思うのであった。

 

 

bookbookpassepartout.hatenablog.com

 

 

 

『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』 渡辺祐真/スケザネ

世界に対する様々な言葉の束、つまりは物語をたくさん持っている人は、それだけ世界を豊かに眺めることができる。

物語を味わうことの効用は、世界を見ることの彩度を上げられることにもあるのです。

 

本を読んでまたは物語に触れて、「面白い!」「好き!」と感じても、それだけで終わらせることができない。

それ以上は何も浮かばなくて、それだけで終わらせるしかないこともあるけど、大抵はそれだけで終わらせられなくて、その作品の何が面白かったのか、どこがどう好きだったのか知りたくなって、それを誰かに話したくなる。

それはちょっと恋に似ている。

 

好きになったもののことは深く深く知りたいし、深く語りたい。誰かに話したいし聞いてほしい。

そうこうしてるうちに、自分が普段どういうところに目をつけて、どんなものを好むのかを知っていく。自分のこともわかっていく。

そんなところもちょっと似ている。

 

だけどそれは何も恋に限ったことではなくて、その対象がなんであれ、それに好意を抱いた時に湧き上がる感情や衝動だ。それはもしかしたら好意じゃなくて嫌悪かもしれないけど。

何かに嫌悪を抱いた時だって、なぜそれが嫌なのか、自分はどういう人間だからそれが嫌なのか深掘ってしまうものだけど。

 

嫌悪に関しては置いておくとして、大抵の場合は「面白い!」「好き!」となった時、もっと知りたい、深く知りたいと思うものだ。深く知ることによって、そのものとの関係も深くなって、ますます面白くなって好きになっていく。

 

渡辺祐真/スケザネ『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』は物語の扉を開け、より深い関係を築くために役立つ鍵が満載だ。

 

視点を多く持つ、自分のできうる限りの勉強や人生を賭して迫っていく、精読多読両方をやる、誰を主語にしどの行動に注目しどの変化を軸にして自分だけの解釈をしてみる、物語が書かれた時代背景を知りそれが今どんな意味を持つかを考えてみる、等々。

 

どれも「面白い!」「好き!」の後、どこへ進めばいいかわからなくなった時にその道筋を示してくれるものばかり。

 

それぞれのカギについて詳しく解説してくれる中で、小説に限らず映画やアニメやドラマなど、たくさんの物語が参照されて、スケザネさんの物語愛が伝わってくる。

たくさんの「面白い!」「好き!」の先にこの本が出来上がったことが伝わってくる。

 

ここまで書いてきて気がついたことだけど、この本に書かれているカギは物語と深い関係を築くために役立つだけのものではなくて、誰かとの関係を築くためにも役立ちそうでもある。

 

誰かと深い関係を築くときには、その人を見る視点は多い方がいいし、ネガティブ・ケイパビリティだってめちゃめちゃ大事だし、その人が普段使う主語が何でどんな行動をするのかも見ていた方がいいし、その人がその人になるまでの背景だって知っていくものだし、それまでの人生を全てぶつけ合うようなものだ。

 

人はそれぞれその人固有の物語を持つという。

この物語のカギたちは、本との関係を深める時だけじゃなく、誰かとの関係を深める時にも、きっと役立つ。

 

 

 

 

bookbookpassepartout.hatenablog.com