本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

フェミニズムとムーランとアナ雪

 最近フェミニズムの本を読むのが楽しくて何冊も続けて読んでいる。

楽しいだけではなくて、自分の無知さに気づいて、自分がいかにのうのうと生きていたかを知ることでちょっと恥ずかしくもなる。

またフェミニズムは、旧来的な男性にとっては、居たたまれなくなるようなものというイメージがあるけれど、旧来的な女性にとっても居たたまれなくなるような、胸が冷えるようなこと、例えばもっと主体的に生きなきゃダメ待ってちゃダメ的なことも書いてあるので(もっともなことだけど)楽しいばかりじゃない。

でも自分の無知に気づいたり、居心地が悪くなる経験をすることによって、見えてくるものや自分の中の世界像が変わるのだ。それが面白い。

今回は色々なフェミニズムの本を読むことによって、見方が変わったディズニー映画について話していきたい。

 

 

ムーラン

河野真太郎さんの労働と女性とテーマにした『戦う姫、働く少女』を読んで『ムーラン』を観たくなって、なにも考えることなく楽しんで観てしまったのだけど、ムーランはディズニー史上初の戦う女主人公だと聞いて、その革新性を知った。


確かにそのあと読んだ若桑みどりさんのディズニーアニメを題材にしたジェンダー入門書『お姫様とジェンダー』で言われてるように、美しいことによって王子様に選ばれるお姫様とは違う描き方をされている。

 

白雪姫やシンデレラなどは綺麗に着飾って王子様に見つけてもらうことによって幸せになるけれど、ムーランは違う。
ムーランも物語の冒頭で仲人に認めてもらうために祖母や母によって化粧をさせられ着飾らせられるんだけど、結局上手くいかない。(ムーランの化粧をした顔はちょっとグロテスクでもあり、ちょっと滑稽にも思える…)
その後異民族からの侵略に対抗する為、徴兵されそうになる老いた父の身代わりに、髪(女性の美の象徴)を切り男装をして出兵する。
女性としての美を捨てたムーランは訓練で戦場で簡単に諦めない心意気や柔軟な発想によって、女性だとバレた後も周りから認められる。
戦いが終わった後のシーンでは、ムーランとその後結婚するであろう上官に、王様は「あの子を逃すと損するよ」的なことを言う。

その時もムーランは着飾ってはいない。
異民族の駆逐が終わり家に帰ってきたムーランに父は「武功よりもお前が帰ってきたことが嬉しい」と言う。
これは武功よりもその人そのものを認めることであり、ひいては「より美しくなければならない」という考えの否定になるのではないか。


アナと雪の女王』がフェミニズムとして優れた作品として認められる中で、『ムーラン』ももっと認められていいのではないかと思った。

でもそんなムーランも結局、上官に選ばれる存在であって、主体的に選ぶ存在ではないのよね….。
父に変わって戦場へ行く選択肢を選ぶのは家族愛があってすごいことだと思うし、そこにおいては愛によって選ばれる存在ではなく、選ぶ存在ではあるけど。

 

 

戦う姫、働く少女 (POSSE叢書 Vol.3)

戦う姫、働く少女 (POSSE叢書 Vol.3)

 

 

 

 

 アナと雪の女王

『ムーラン』は戦うプリンセスとしても史上初であったけれど、家族のために主体的に行動するプリンセスとしても新しかったのではないかと思う。

その系譜は公開当初からフェミニズム映画として話題になった『アナと雪の女王』にもつながる。

 

若桑みどりさんの『お姫様とジェンダー』を読んだ後に『アナと雪の女王』を観ることで、初めて気づいたことは、『アナと雪の女王』は、王子様の真実の愛によって愛されて選ばれ、命が助かる従来のプリンセス、白雪姫やシンデレラのような救われかたではなく、自分の命より他者の命(エルサの命)を優先して選ぶ(愛する)ことによって命が助かるのがアナ、つまり選んだ側の自分自身だということ。

アナとエルサは王子様とお姫様の関係ではなく姉妹関係だ。

従来なら「真実の愛=王子様のキス」によって命が助かるところを、恋愛関係でもない家族の愛によって、しかも命の危機に晒されている方が主体的に選ぶ行動することによって命が助かるということの革新性。

愛される客体選ばれる客体というよりも、愛する選ぶ主体として主人公が書かれているということもそれまでのディズニープリンセスにはあまりみられなかったのではないか。

 

愛することを選んだのは、アナだけでなくエルサもそうだ。

 これは北村紗衣さんの『お砂糖とスパイスと、爆発的な何か』も読んでいたから気づいたことで、北村さんはこの映画をこの本の中で「エルサの能力を公共建築としてのスケートリンクを作るのではなく、独創的な城を建てるだけで終わらせることはできなかったのか、能力は民衆のために役に立てなくてはいけないのか」という視点で、ラストシーンを観ていて、その見方がとても新鮮だった。確かにそういうラストもあり得たはずだ。

その章は試し読みできるので是非読んでみてほしい。

 

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これを読んでいたので気づけたことは、エルサが「Let It Go」を歌いながら、「自由になるの」「私の道を行く」って歌いながら自分の孤城を作っていたこと。

だけどエルサが自由になって自分の能力を思う存分使うことによって、それが麓の故郷にまで影響を及ぼし、国民を苦しめていた。

それを知ったエルサは苦悩する。しかしアナに自分の能力を制御するには愛だと教えられ、最終的には国民のためにスケートリンクを作る。

このことからエルサは一人で生きる自由を捨てて愛を選んだことがわかる。
愛と自由が対立構造になっているのだ。

彼女の自由は一体どこに行ったのだろうか。

 

 

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

お砂糖とスパイスと爆発的な何か?不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門

 

 

 

 プリキュア(おまけ)

プリキュアセーラームーンもそうだけど、戦う少女アニメの主人公はなんでみんな中学二年生なのかといつも疑問だったのだけど、斎藤環さんの『戦闘美少女の精神分析』で戦闘美少女の変身シーンは少女から大人への成熟過程である(だからちょっとエロいのか…?)って書いてあったのと、『お姫様とジェンダー』に書いてあった河合隼雄の「いばら姫」解釈の姫が15歳になった時に紡錘に刺されて眠くなるのは初潮を迎え子供時代は終わり、結婚可能な乙女として変身する過程と書いてあったのを読んで、ちょっと謎が解けたような。
中学二年生っていうのは子供から大人への過渡期なのだ。

その過渡期に主人公を持ってくることによって物語がダイナミックになるのだろうか。

 

 

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

 

 

 おわりに

今回はフェミニズムという視点で観た感想だったけれど、フェミニズム以外に視点はいっぱいあって、それは「〜イズム」という視点じゃなくても、誰か個人の視点でもいい。

自分にはなかった考えで作品を観る、自分ではない誰かの視点で観てみる。

そうすると自分に観えなかったものが観えてきて楽しいし、何度も同じ作品で味わえる。

何度も味わえるような作品に出会っていきたいし、何度も味わえるように作品世界を深められるように、自分の中に視点をいくつも持っていたいと思う。