本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記『珠玉』

彩瀬まるさんの『珠玉』を読んだ。単行本で読んで、文庫化して読んだので読むのは再読になるんだけど、この作品はたくさんある彩瀬さんの作品の中で埋もれているような気がする。粒だっていないというか主張が強い方ではないというか。

好きなシーンも台詞もモノローグもいっぱいあるんだけど、なんか埋もれてるいるというか輪郭が曖昧な小説だ。

こう感じるのは私だけだろうか。初読後に書いたブログの感想記事を読むと今と全然違うテンションだから、今の私の気分なんだろうか。

 

なぜそう感じるかというと、この小説は視点人物が複数いるのにその視点の切り替えがあまり劇的でないように思う。視点人物が複数いる話って連載短編形式にした方が劇的になって読みやすいし吸引力がありそうだ。(劇的であること吸引力があることと、その作品が面白いか良い作品かどうかは別ものなんだろうけど。)

短編ではなくて、長編で複数の視点人物を操るのは難しいんだな。かといって長編を1人の人の視点でずっと書くのも話を立体的にするのが難しそう。

 

初読では気にならなかったところからそんなことを考えた。

 

もう一つ気づいたところは、この小説には彩瀬さんの好きなモチーフとか関係性とか台詞がたくさんあるということ。

味方でいてくれる服とかアクセサリーとか、主人公の盲点を付くセリフとか、連帯してきたつもりだけど添い遂げられず決裂してしまう女たちとか。

それらが彩瀬さんの好きなものなのかはわからないけど、他の作品にも出てくることは確かで、彩瀬さんはそういうの書くのが好きなのかなぁと思わせるほどではある。

 

彩瀬さんだけでなく、同じモチーフや似たシーンをいろんな作品に書く作家さんはよくいる。そういうのって好きというより書きたいものなんだろか。書きたいという前に自然に書いちゃってるものなんだろうか。

 

これこの人よく書いてるなぁとか、こんなシーン前読んだ作品にもあったなぁとか、そういうのに気付けると嬉しいというか癒されるというか、なんか安心する。

 

好きな作家さんが好きなように作品を書いてて、書きたいことを書けてるような気がして。

 

読者として書いて欲しい話とかぼんやりとあるけれど、作家さんには自分の書きたいことを書きたいように好きなように書いて欲しい。読者として一番読みたいものはそれだ。