本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記 他の本のことばかり考えてる

芥川賞の発表前にはいつも必ず候補作を読んでたのに、全作読み終わってから発表を待っていたのに、今回は一冊も読み終えられなかった。

 

読み終えられはしなかったけど、一作だけ島口大樹「オン・ザ・プラネット」は読み始めていたところだった。

卒業制作の映画を撮るため、車で横浜から鳥取砂丘へ向かう学生4人が道中で、「過去とは何か本能とは無意識とは世界とは何か」と話していく会話劇であり、語り手の意識の流れや思考の流れを追っていく、いかにも純文学っぽい作品だった。

 

昨日の審査員の講評でもあったけど、その会話が青いし、その青さがとてもモラトリアムという感じだった。時間が余ってる時とか余裕がある時にしか考えないような哲学的な問いに溢れてて、うだうだ考えてるところが若い。

こういう哲学的で思弁的な作品はよく芥川候補作にあって、『死んでいない者』で芥川賞を受賞した滝口悠生さんの受賞する前の候補作『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』もそういうタイプの作品だった。

この作品を読んだ当時は「この哲学的なとこが好きだな」と思いながら読んだんだけど、『オン・ザ・プラネット』は他人事のように「青いなーモラトリアムー」と思いながらだった。

ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』が候補作になったのはもう7年前だし、私も若かったからこの青さが青臭くなかったのかもしれない。

 

でもそれでも滝口さんの作品の方がいい作品なんじゃないかな、と思ったし、同じ会話劇なら恩田陸さんの『黒と茶の幻想』の方が面白かったなと、今読んでる作品に没入するのではなく他の作品のことばかり考えていた。

 

それはツイッターで話題になっていたから読むのを楽しみにしていた逢坂冬馬の『同士少女と、敵を撃て』の時もそうだった。

面白いと思うところはあるんだけど、なんか今ひとつで、どこが面白くないとは具体的に言えないんだけど、何か物足りなくて、同じ第二次世界大戦を書いた者なら深緑野分『ベルリンは晴れているか』や佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』の方が真に迫っていて迫力があったし物語としても吸引力があったのにな、と思ってしまった。

 

この作品はあの作家のこの作品に似てるとか、これがテーマだったらあの作家の方がうまく書いてるとか。本をたくさん読んでると自分の中に座標ができているので、ついつい比べてしまう。これとこれは同じくくりだなとか、これの近似はこれとか。

それが雑なまとめになっていることもあるだろうし、目の前の作品をただそれとして、たった一つの作品としてみれないのは失礼なきもするし、なんか悲しい。

でもそうして比べながら読むことで目の前の作品への理解度とか分析を深められることもあるだろうしどうなんだろう。

 

批評本なんかを読んでると作品の比較分析がないと成り立たないし、複数の作品の中で一つの軸となるテーマを見つけて論じて行くのが批評で文学研究で、その読み方は硬派でかっこいい。

だけど私の場合、作品を読んでるときに他の作品が浮かぶ時は、だいたい浮かんだ作品の方がいい作品でその逆はなく、比較分析というかただの悪口になってしまう。

だだの悪口でもいいんだけど、やっぱり後ろめたい。

 

 

 

 

 

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