本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『自分ひとりの部屋』 ヴァージニア・ウルフ

散文や小説の執筆は、詩や劇の執筆に比べれば容易だったことでしょう。集中力をそれほど必要としませんから。ジェイン・オースティンは生涯そんなふうに執筆を続けました。彼女の甥が回想録に書いています。「作品につぐ作品をどうやって書き上げたのかは驚くばかりである。こもっていられるような自分ひとりの書斎を持っていたわけではなく、作品のほとんどをみんなの居室で、あらゆる種類のちょっとした中断を受けながら書いたのである。自分が何をしているのかを、家族以外の者、つまり使用人や訪問者などには感づかれないよう、叔母は細心の注意を払っていた」。ジェイン・オースティンは原稿を隠したり、吸い取り紙を上に乗せたりしたのでした。

 

上半期ベスト本にもあげた小川公代さんの『ケアの倫理とエンパワメント』を再読するための準備として、ここ最近はずっとウルフの『自分ひとりの部屋』を読んでいた。

 

この本を読むと男性作家が書いてきた女性というのは、男性の妻だったり母親だったりと女性という性に縛られた一面的なものでしかなくて、男性の付属品のような扱いばかりだということがわかる。

小説の中で女性が活躍していたとしても、それは虚構の中だけで、現実ではやはり夫の所有物や父親の所有物で付属品だった。

 

ここ最近ずっとこの本を読んでたというのに、ついこの間「芥川賞候補作品が全員女性作家だということは騒ぐことじゃない」とか言ってた自分が恥ずかしい。

「ノミネートされたのが女性作家のみの芥川賞は史上初」ということと、その時読んでいた「女性がものを書こうとするならお金と時間と自分ひとりの部屋が必要」という本の内容が結びついていなかった。

 

女性が堂々と小説を書けるようになるまでに、当たり前に男性と肩を並べて書けるようになるまでに、どれだけの苦労があったか。

時間とお金とひとりの部屋を獲得できず、どれだけの人が創作を諦めてきたか。

そうしたこと全部わかっていなかった。

 

もちろん、候補者が全員女性であることがいたって普通なことで当たり前で、騒ぐことじゃなくなる方がいい。

その方がいいに決まってる。

でもそこに至るまでの誰かの苦労や努力とか、その普通が叶わずに踏みつけにされてきた人のこととか、何も知らずに、その人たちが作ってきた土台の上に立っているのに、「別に普通のことじゃない?」とかいうのはやっぱり恥ずかしい。

 

今の人からしたら、ジェイン・オースティンがどんなふうに小説を書いてきたかとか、昔のことすぎてピンとこないというか、「そんな昔のことを引き合いに出してきて感謝しろと言われても…」という感じなのかもしれないけど。

だけど、当たり前であって当たり前じゃないんだってことは頭の片隅にでも置いておかないと。

そうしないと、当たり前は簡単に失われてしまうだろう。