昔見かけた目つきの悪い彼も、身軽に自身の考えを刷新していくサルトルも、ただ謙虚であるとか、自分の意見にこだわりがないとかではなく、自分の立場よりも真理をケアし、異なる考えを引き受けて、考えを発展していたのである。だからこそ、弁証法の場では、わたしは取るに足らないちっぽけな存在ではなく、真理に貢献するひととして扱われる。真理に近づくため、必要な存在となる。
哲学研究者永井玲衣によるエッセイ。面白かった。学者さんの書くエッセイって面白い。自分の研究と日常がいかに関係しているか書いてくれていて、わたしが普段感じていることや生活と通じるものがあるなぁと思えて面白い。
引用した部分は哲学的な会話をしていく上で自分の考えを恐れないで欲しいと永井さんの先生が言ったことについての部分。
「自分の立場より真理をケアして異なる立場を引き出し考えを発展させる」ってかっこよすぎないですか。自分の立場より真理をケアするんだけど、自分の存在はちっぽけなものではなく真理に近づくために必要な存在っていうとこも痺れる。
自分の真理を胸に抱くことは大事なことだけど、それはどこかに存在する世界の真理に比べたら小さいもので、間違ったものかもしれない。だから間違いを認めることや変わることを恐れずにいたい。自分が思う真理を大事にしつつ、他者や世界の真理の前では謙虚でいたい。自分なんてちっぽけなものだと知りつつ、真理に必要なちっぽけなのだと誇っていたい。
真理の前に謙虚でありつつ、自分を誇ることもできるような、そんなしなやかさが必要だ。