本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記 『キネマの神様』

原田マハの『キネマの神様』を読んだ。

あらすじはこう

39歳独身の歩は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、多額の借金が発覚した。ある日、父が雑誌「映友」に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることに。〝映画の神様〟が壊れかけた家族を救う、奇跡の物語。

 

この父の映画ブログを中心をして様々な物語が発生していく。

主人公歩の父がいち映画ファンとして、作品への想いを綴っていくんだけど、その記事に対して同じくいち映画ファンがコメントをして、ファン同士のコミュニケーションが生まれていく様が、わくわくしてスリリングでもあり、好きなものについて語る際の多幸感もあるこの小説の中枢になっている。

 

このブロガーと読者の関係が羨ましくて、私もこんな風に一つの作品に対して自分なりの解釈や理解を持ちたい!それを誰かと語りたい!という気持ちになる。

解説を書いている片桐はいりさんも、映画を観終わった後に、その上映時間の倍近くもの時間を使って友達と話し合うと書いていて、それがまたすごく羨ましい。

 

私は本だけじゃなくて映画も好きだ。映画だけじゃなくて美術展を観るのも好き。

そしてその全部について、この小説にあるようなファン同士の関係に憧れがある。

自分の感じたことを言語化して、相手のそれも聞いてたくさんのことを語り合いたいのだ。

なぜこんなにも語り合いたいと思うのか。

そう疑問に思ったところで、デカルトの「我思う故に我あり」という言葉が浮かんだ。

 

大学の哲学の講義でデカルトについて勉強した時、「我思う故に我あり」について考えることを書け、というレポート課題があった。

(ここからは私のうろ覚えの知識と解釈で話すので、哲学に詳しい人にとってはツッコミ所が沢山ある文章になると思いますが、どうかお付き合いを)

 

デカルトは絶対疑いようのないものは何かと考え、いま見ている景色は悪魔に騙されて幻影と見せられているのかもしれない、でも「騙されているのかもしれない」と考えている私はここにいるとして「我思う故に我あり」にまで至った。

でも私がレポートに書いたのは、「騙されているかもしれないと考える私」の前に「騙されうる対象として存在する私」が存在しているのだということだった。「我騙される故に我あり」みたいなことだ。

「我騙される」というとなんか虚しいけど、世界が何か投げかけてきた時にそれを受け止める対象としての我。

そうした「対象としての我」が存在する。「思う我」よりも前に。

 

そんなことをレポートには書いたけど、今思うとそれだけではちょっと心許ない。

「思う私」は存在する。その前に「対象としての私」も存在する。

「映画について感想を持つ私」も、「映画を観る私」も。

でもそれだけでは、それだけで終わらせていては「私」はいつまで経っても一人だ。私もあなたもずっと。

それだけでは物足りない。どうしても他者との関わりが欲しくなってくる。

 

自分で自分の存在を確認するためにはそれで十分だけど、沢山の人に囲まれて生活しているのだから、自分以外の人がどう思うのか知りたい。自分の感受性にも限界があるから、他者の感受性に触れてより広くより深くその作品世界に触れたい。

そしてもちろんそれらを通して「我あり」と思いたい。

 

語り合うことを通して「我あり」と思えたなら、「汝あり」もきっと通ってきてるし、「一緒に経験した作品あり」も通っているし、自己承認も他者承認も我々承認(?)もできて、作品承認もできる。

それには「作品を受け止める対象としての我」だけではダメで、「思う我」だけでもダメで、「思ってることを他者に的確に発話できる我」じゃなきゃダメなのだけど…。そんな我が私だけでも意味がなくて、同じように発話できる他者がいなきゃいけないのだけど…。

 

 

そんな風に色々と超えなきゃ行けないハードルはいくつもある。

作品について語り合ってお互い承認し合うなんて、簡単にはいかないかもしれないけど、それはきっとすごく楽しい。

だからやっぱり私は作品について語れるような着眼点や解釈と言語化能力が欲しい。もちろん語り合えるような相手も。

 

 

キネマの神様 (文春文庫)

キネマの神様 (文春文庫)

  • 作者:原田 マハ
  • 発売日: 2011/05/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

方法序説 (岩波文庫)

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  • 作者:デカルト
  • 発売日: 1997/07/16
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