本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

読書日記『モヤモヤの日々』

僕は、「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」というものがこの世にあると思っている。いや、もしかしたら僕だけなのかもしれないが、「お、この作品すごく面白い」と思ったとしても、どこか自分のセンスに自信が持てず、「他に誰か褒めてるかな?」なんて検索してみたくなる。僕の思う「センスのいい人」が褒めていれば、「これは間違いない」と安心して紹介できる。僕もそれなりに本を読んでいるほうだとは思う。でも、ついつい他人の評価に依拠したいと思ってしまう弱さがあるのだ。

 

 

 

 

三宅香帆さんが光文社新書noteで連載している「失われた絶版本を求めて」の第3回と第4回で、「面白くない本を面白くないって言いづらくなってるよね」って話をしていて、確かに言いづらいよね自分の「面白くない」という感覚をなんか信用できないんだよねと思ったけど、宮崎智之さんの『モヤモヤの日々』を読んでいたら、宮崎さんは「面白い本を面白いって言いにくい」って話をしていた。

 

わたしは、「面白い!好き!」と思ったものは、後先考えることなく、褒めてしまうけど、「面白くない!嫌い!」と思ったものに関しては、そう言葉にすることを躊躇してしまう。

この違いは何かというと、自分の感じる「好き!」という感覚に絶大な信頼を寄せているけど、「嫌い!」という感覚には自信がない、というものだと思う。

 

「面白いなぁ好きだなぁ」と思ったら、他の誰が褒めてなくても褒めてしまう。むしろ誰も褒めてないものを褒めるのはパイオニアみたいで楽しい。それを否定する人がいたとしても、「わたしが良いと思うものは良い!」と謎の自信を発揮し、なんなら「この良さをわからないなんてもったいないなぁ」と偉そうにも思ってる。だから、それとは逆に「面白くないなぁ嫌いだなぁ」と思うものは、「わたしがこの作品の良さを見つけられてないだけかもしれない」と自信がなくなる。何かを面白がれるかどうか、良いと思えるかどうかって、感性の問題だけじゃなくて、知識とか教養とか目の付け所の良し悪し、審美眼が関わって来ると思っているから、だから「今のわたしにはこの作品を面白がれるだけの力量がないだけかも…」という留保でもって、「面白くない!」と言うことができない。

でもそれって、本当なら面白くもないものを、わたしの知識と教養がなくて目の付け所が悪く、審美眼がないから、「面白い!好き!」と思ってるだけかもしれないってことでもある。そんな疑いを持つことなく「面白い!好き!」と言ってしまうのはなんでなんだろう。浅はかなんだろうか。

そうやって考えだすとだんだんと「面白い!」とも「面白くない!」とも言いづらくなっていってしまう。

結局「誰かが褒めていなければ褒めにくい問題」は人によって「誰かが貶していなければ貶しにくい問題」になるだけで、根底は同じだ。

自分が自分だけの価値観を持って、作品を評価するなんてことが途方もなく難しいことにみえてくる。

 

うーん。でも改めて今まで自分がいい作品だと思ったものを思い出してみても、いい作品だったなぁ、と読んだ時観た時の感動が蘇ってくる。そう感じた自分の感覚を疑うことは難しい。

だから変な話、「面白くない!」と堂々と言ってみたい。そう感じた自分の感覚を信じて。でもやっぱり難しい。絶対どこかにはわたしの「面白くない!」はあるはずだと思うけれど。

 

 

自分は本当は面白くないと思っている本のことも、肯定してしまい、高評価をつけてしまうと、自分の審美眼を曇る。そうしているうちに、自分がどんな作品が好きで、面白いと思うのか、自分の輪郭がどんどん分からなくなってしまう。するとなんとなく世間や他人の評価に忖度するようになり、自分の欲望も嗜好も分からなくなるのではないか。

 

 

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