本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

人の世はどちらにしたって住みにくい。

 

去年「文豪の作品を読まなきゃ」と思い立ち、一番興味のあった夏目漱石の作品を読破しました。

と言っても新潮文庫で出てるのだけ…。

そして読破といってもほんとに読んだだけという感じで、作品の凄さはわかるけど、どこがどう凄いのか言葉にできないものばかり…。

 

しかし最近機会があって『草枕』と『坊っちゃん』を読み返したところ、初読の時と違って気づかされるところがたくさんありました。

 

今日はその中でも『草枕』の主人公はどうして生きづらいのか、一見対照的な筈の『坊っちゃん』との共通点、などについて話そうと思います。

 

 

草枕

冒頭部分

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角にこの世は住みにくい。

 

この『草枕』の冒頭部分は有名なので聞いたことのある人も多いでしょう。でもこの後にどんな文章が続くのか、読んだことのある人は少ないのではないでしょうか。

 

この後は、

 

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。

(中略)

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い

と続きます。

 

冒頭部分だけでは、この世は住みにくいという主人公の主張があるだけですが、後に続く文章を読むと、住みにくいからこそ芸術ができる、住みにくいからこそ芸術の力をかりて人の世を長閑にするのだ、というその後の動きがわかります。

 

ここまで読めば『草枕』は辛い現実から逃れるために芸術に向かう人物の話という主題が見えてくるでしょう。

 

草枕の生きづらさ

 

辛い現実を俯瞰でみて、そこから出汁をとるようにして、芸術作品をつくろうと、山奥にこもり、そこで絵を描く主人公。

最初は素直に「ふむふむ」と読んでいたのですが、途中で「そりゃあなた生きづらいでしょうよ!」と思ってしまいました。

 

いかんせんこの主人公、現実を芸術作品にするために現実を胸の中に留め置きすぎる。この人、芸術に昇華するために現実を見つめすぎるところがあるのではないか。

俯瞰で見るにしたって見過ぎなのではないか。

 

私がそう思ったのは、主人公が宿の部屋で漢詩を書く手をふと止めて、開け放してあった入り口を見ると振袖を着た女が見えたシーンです。

この女、一度部屋の前を通っただけでなく、何度も主人公の視界を横切るのです。黙って目の前をまっすぐ見て廊下を行ったり来たりする女。しかもその場に相応しくない艶やかな振袖を着て。こわくないですか。

しかし主人公はその女の姿を格調高い文章でいちいち描写していきます。

 

暮れんとする春の色の、嬋媛として、しばらくは冥邈の戸口をまぼろしに彩る中に眼も醒むる程の帯地は金蘭か。あざやかなる織物は往きつ、戻りつ蒼然たる夕べのなかにつつまれて、幽闃のあなた、遼遠のかしこへ一分毎に消えて去る。

 

なんだかよくわからないものを見つめすぎなのでは…。

普通なら「怖い怖い!」とか、「なんか変な人歩いてる」と思って襖を閉めるでしょう。

 

ここだけを読むと、目の前の女に対して格調高い高尚な言葉で飾り立てているので一見現実離れしているように見えますが、現実から浮遊しすぎるのも考えもの。

さらにこの後主人公は現実離れした想像までし始めます。

 

またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りに就いて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚のままで、この世の呼吸を引き取るときに、枕元に病を護るわれ等の心はさぞつらいだろう。

 

目の前を横切る得体の知れない女を瀕死の病人にしたてて、それを看取る己の辛さに思いを馳せている。

自分で勝手に妄想した情に棹をさして勝手に流されている。

そりゃ、この人にしてみたら兎角に人の世は住みにくいはず。

 

現実逃避のために物事を俯瞰でみると、それまで見えていなかった部分が見えてしまって、より深く現実に潜ってしまうことってあると思います。

その只中にいれば見なくてすんだものが見えてしまう。

この主人公もそういう状態にあるような気がします。

この主人公も、感受性が強くて真面目で考えすぎで、全部を言葉にして事細かく観察してしまうから「兎角に人の世は住みにくい」のではないでしょうか。

 

坊っちゃん

 

 『草枕』は元々『鶉籠』という中編集に『坊っちゃん』と『二百十日』と一緒に収録されいたそうです。

それを知って改めて『坊っちゃん』を読み返してみると、『草枕』とあまりにも対照的なのでびっくりしました。

この振り幅のある組み合わせ、企みを感じます。

 

冒頭部分

坊っちゃん』の冒頭部分も誰もが一度は読んだこと耳にしたことがあるのではないかと思います。

 

親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。なぜそんなむやみをしたと聞く人があるかも知れぬ。べつだん深い理由もない。

 

どうでしょう。ここの部分だけで考えすぎ真面目すぎな『草枕』の主人公と好対照なのがわかるのではないでしょうか。

なにせ無鉄砲なのです。

考える前に体が動いてしまう。

同級生に「いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。弱虫やーい」と言われてイラっとしたんでしょうね。飛び降りてどうなるのかも考えずに無鉄砲に飛び降りる。そして一週間程腰を抜かす。しかしそのことを反省したり後悔したりする様子もない。

父親に「こいつはどうせろくなものにならない」と言われてもあっさりとしたもので「なるほどろくなものにはならない。御覧のとおりの始末である」と思うだけ。竹を割ったような性格とはこういう人のことをいうのでしょう。

 

他にももう一つ『草枕』と好対照だな、と思ったところがあります。

草枕』には絵画や漢詩、書、俳句など様々な分野の芸術が出てくるのですが、坊ちゃんはどうも芸術的なものを軽んじている様子。

草枕』の主人公は画家ですが、作中で俳句も良く作ります。しかし坊っちゃんにしてみると俳句など自分とは無縁のものだと思っているようで、

 

赤シャツはいろいろ弁じた、しまいに話をかえて君俳句をやりますかときたから、こいつはたいへんだと思って、俳句はやりません、さようなら、とそこそこに帰って来た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられてたまるもんか。

 

このように俳句を話題にされただけで逃げるように帰る始末。

そのくせ「朝顔や釣瓶をとられて貰ひ水」という俳句を知っていて、それを踏まえ捨て台詞にしている。

教養はあるのに興味がない、って悔しいけどなんだかちょっとかっこいいような…。

 

坊っちゃんの生きづらさ

 

さっぱりとしていて威勢が良くて考えすぎることもなく勢いで生きているような坊っちゃん。『草枕』の主人公と坊ちゃんは対照的ですが、『草枕』には坊っちゃんに似た人物が出て来ます。

それは江戸っ子の床屋の主人です。

この主人、主人公と違ってさっぱりとした威勢のいい話っぷりで、気持ちの休まるシーンでもあるんですが、私は主人公もこの人みたいな江戸っ子気質だったら「兎角に人の世は住みにくい」なんて言わないんだろうな、と思いました。

 

しかしそうもいかないようです。

坊っちゃん』を読み進めて行くと、坊っちゃんも情に棹さしまくり、意地を通しまくりなのです。

同僚の山嵐一銭五厘の密かな押し付け合いをしているシーンなんかはお互い意地の張り合いだし、うらなり君とマドンナの経緯を聞いて憤慨して赤シャツをやり込めるシーンなども情に棹をさして流された挙句教師の仕事をやめる始末。

 

無鉄砲な坊っちゃんもそれはそれで兎角にこの世は住みにくいようです。

 

草枕』も『坊っちゃん』も人の世は住みにくい

 

草枕』の主人公は現実を離れてもなおその住みにくさ、生きづらさから逃れられてはいないように思えます。現実とは距離を置いているのに窮屈で鬱々としてあまり楽しくなさそう。

対して『坊っちゃん』の主人公坊っちゃんは、『草枕』の主人公が住みにくいとした人の世の只中にあって、智を働くのは山嵐に任せて角を立て、情に棹さして流され、意地を通して他者との軋轢をうみ、自分から面倒なことに巻き込まれにいっているように思えます。でも軽々とさっぱりしていてなんだか楽しそう。

 

人の世はどちらにしたって住みにくい。

その住みにくさを全身で浴びようとも、その住みにくさから逃れようとも。

でも『草枕』の主人公のような現実離れして生き方は私にはできそうにない。むしろそっちを真似たらさらに生きづらくなる予感が。

私が『草枕』の冒頭部分を思わず呟いてしまうような生き辛さに直面したら、『坊っちゃん』の痛快さ無鉄砲さを思い出して勇気をもらうことにしようと思います。

 

 

草枕 (新潮文庫)

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坊っちゃん (新潮文庫)

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