本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』読解。

去年はフェミニズムジェンダーに興味を持ち始めた年で、割とたくさん本を読んだけど、まだまだ知識が自分のものになってなかったり、自分の考えを話せるようにはなっていない。

そんな簡単にそうなれるとも思ってないけど、今年もフェミニズムに関しての本を読んで、少しはものにしたいなぁと思って早速年始から北原みのりさん『メロスのようには走らない』を読んでいたら、フェミニズムとは関係がないと思っていたある小説について深く考えるきっかけができた。

 

小説以外の本を読んで小説への理解を深める、ということはよくあって、そんな時には、今まで読んできた本たちがそれぞれ、有機的に繋がり大きく動き出し、蠢いているような、まるで生き物であるかのように感じる。

 

 

『メロスのようには走らない 女の友情論』

 

この本は、女の友情に未婚既婚の違いや収入の違いが、子あり子なしの違いがどんなふうに影響してくるのかが、北原さん自身のエピソードを交えながら書かれていて、私も経験したこと、これから経験するかもしれない出来事について、より広い視点深い視点で教わることができた。

 

そのなかでも印象に残ったのは女の友情に美醜の違いがどう影響しているのかについて書かれたパート。

ここを読んで真先に思い出したのが村田沙耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』の信子だった。

 

この小説の語り手の結佳には、小学校時代、同級生の信子と若葉の2人の仲良しがいた。しかしこの3人は中学校に入った頃には元々可愛かった若葉はクラスで1番上のグループに、結佳は下から2番目のグループに、信子は1番下のグループに自然と分かれてしまう。

 

信子と結佳は見た目的に大した差はないはずなのに、信子は男女問わずクラスの上のグループから蔑まされていた。

信子と同一視はされたくないけど、無碍にはできない結佳は、周りに人がいないときだけ信子に話しかけ、距離感を保つことに注力する。

そんな関係の中で結佳は、信子がきれいになって自分を蔑むクラスメイトを見返そうとしていることを知り、スーパーの中の本屋でファッション雑誌を何冊も抱える信子を見つける。

 

見返すためにリボンの付いたゴムやバラの香水をつけて学校にいく信子は、その思惑とは正反対に更に蔑まされていく。

 

小説を読んでいて、この展開は「それはそうなるだろうな」と思ってはいたけど、「それ」がなんなのか具体的にわかっていなかった。

『メロスのようには走らない』の下記に引用する部分を読んで、「それ」とは「客観性のない女」であり、「自分の容姿に対して客観的評価を下していない女」だったということがわかった。

 

「客観性のない女」は嫌われるものである。正確に言えば、「自分の容姿に対して客観的評価を下していない女」は、女に嫌われるものである。なぜなら、大抵の女は常に自分を客観視する癖がついているものだから。

 

だからこそ自分への評価が甘く、自尊心が高く見える女を女は脅威に感じ、虐めたがる。容姿で女は分断され、容姿で女は評価され、容姿で女は選ばれているというのに、お前だけが自由でいるなんて許されない、とばかりに、その女の容姿をネタにして貶めるのである。他の女を容姿で虐めることは、自分をさらに追い詰めていく地獄に他ならないのに、容姿イジメに簡単に手を染めてしまう女は決して少なくない。

 

信子は客観性のない女で、可愛い子や上のグループだから許されるような髪ゴムを選んだり香水をつけていたから、さらに蔑まされたのだ。

「ブスのくせにきもい」とか、「ブスが調子に乗ってる」とか、きっとそんなふうに。

 

信子と違って結佳はすでに小学生時代から自分を客観視できていた。

自分がどのレベルの人間かを過不足なく把握して、可愛くてクラスでも取り合いされるくらい人気な若葉とそっくりな色のワンピースを着てしまった日には、周りに少しでも気取られないように、ワンピースの上に羽織っているグレーのパーカーのチャックを上まで上げて隠す。

しかし中学時代の信子は自分を客観視せず自分が周りからどう思われてるのか全く気にせず綺麗な子にだけ許されるような格好をする。

 

信子と結佳の間には見た目的に大した差はないが、自分を客観視できているかどうかの差があって、信子を蔑む生徒はそれを敏感に感じ取っていたのだ。

自分がどう見られているかに怯え、それをなぞり、そこからはみ出さないよう必死の努力を重ねている人間には、自由に振る舞う信子が煩わしかったのだろう。

 

 

『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』

 

 

見返すなんてばかみたいだな、と私は思った。見返すということは、相手と同じ価値観を共有することだ、ピラミッドの存在を肯定することだ。

 

信子は綺麗になって「上」のグループを見返そうとしたけど、それは相手のルールにのっとって、相手の土俵で戦うことで、結佳もその不毛さに気づいている。

 

『メロスのようには走らない』を読んで、『しろいろの街の、その骨の体温の』を再読したくなって読んでいた時、たまたまそれと並行して読んでいた豊島ミホさんの『大きらいなやるがいる君のためのリベンジマニュアル』にも、この小説を読み解くためのヒントがたくさんあった。

この本を読むまでは正直綺麗になって見返したと思うことはそこまでばかみたいなことかな?と思っていたけど、この本の中にある一節を読んで、たしかに信子のやろうとしていることは不毛かも…と思い始めた。

 

これを高校時代に戻して考えると、「おしゃれで頭のいいあの子たちと、まず同じグループに入ることを目指す。そしてあの子たちが逆らえないほどのスペック(一番おしゃれで、一番成績がいい)を手に入れた時に「下」のグループと一緒に真面目に掃除を始める。周りにも掃除を強要する」という方法になるんでしょうか?

なんか、エライ。そんな子、居て欲しい。という気もしますが、実際には、そのグループに入った時点で、彼女らと一緒に「下」の子の悪口を言ったり、掃除をサボったり、という過程を経ないといけないわけです。そうでなければ、「同じグループ」ではありえないし、ひたすらそんなことをやっている間に卒業の時が来てしまうかもしれませんね。

 

たとえ信子が「上」のグループに入れて見返せたとしても、

そのグループにいる足場がもろい、すべては条件付きである、という状態でもあります。今こうして仲良くしている子も、もしも一瞬でもおしゃれをサボったら、もしも成績が落ちたら、あっという間に友だちではなくなってしまうかもしれない……。そんな人間関係のなかで周りを「味方」だと思うのは難しい。

 

これを信子の場合でいうのならば「そんな人間関係のなかで周りを見返し続けるのは難しい」ということになる。

努力すれば、もしかしたら見返すことができるかもしれない。でもそれは一瞬のことで、見返し続ける、要するにもう2度と蔑まれないためにはその努力をし続けなければならない。

一瞬の隙もなくずっと同じ水準、もしくは更に高い水準の努力を強いられることになる。

それで果たして救われるだろうか。見下され蔑まれた日々は報われるのだろうか。

 

豊島ミホさんは高校生の頃、クラスメイトから自分の存在を軽視され、侮蔑され深く傷ついてきた経験があり、そのせいで他者からの視線を伺い怯えて過ごすようになる。

しかし、ずっとそんなふうに生きてくるのも自分で自分を傷つけていくようなもので、ある日限界を迎えた豊島さんはあることを守って生きていくことを決める。

それは、

「誰かのルール」に乗っからないこと。認められるとか認められないとか、そういうことに自分の行動の基礎を置かないこと。

で、これは信子の復讐プランをばかみたいと思った結佳にも通じることだ。

 

 

「上」のグループは信子の努力も嘲笑うし、努力すれば自分たちに認めてもらえると思っていること自体を気持ち悪がっているようでもある。

 

信子のそんな努力を嘲笑うのは「上」のグループだけではない。結佳も心の中でそんな信子を嘲笑っているところがある。

しかし物語の終盤であるきっかけで、心の中で見下していた信子のことを「美しい」と思う瞬間が訪れ、その瞬間は結佳が誰かのルールを脱し、自分のルール価値観を見出した瞬間だった。

 

自分の価値観を見つけ出し、自分の言葉で他者に触れ始めた結佳は勇気を出して、信子に信子のことを美しいと思っていることを伝えるのだが、信子はその言葉を受け付けなかった。

 

誰の価値観にも追従せずに、自分独自の価値観で美を見つけられた結佳と、結佳に美しいと言われても、従来のルール審美眼に捕らえられ、それを認められなかった信子。

相手のルールにのっかった上での仕返しをあくまで望む信子。

 

 

『しろいろの街の、その骨の体温の』を読んだのはこれで3回目だけど、前回の再読までは、無様だと思われようとも美しくなる努力をし、結佳に「美しい」と思われる信子の方を根性があって執念があってすごいなと思っていた。

だけど、『メロスのようには走らない』と『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』を読んでからこの小説を再読すると、「上」グループからのルールでは醜いとされる信子を独自の価値観で「美しい」と思い、それを信子に直接伝えられる結佳の方がすごいなぁと思う。

自分で自分の価値観を発見して、揺るがずに自由にそれを表現できるということがどれだけすごいことか。

 

信子が周囲の視線を気にせず自分を着飾ることが勇気がある行為だし、醜い人が着飾ったっていい、美しさは美しい人のためだけではないという「美人による美の占有」への反旗のようで、『メロスのようには走らない』で書かれていた「容姿で女は分断され、容姿で女は評価され、容姿で女は選ばれているというのに、お前だけが自由でいるなんて許されない、とばかりに、その女の容姿をネタにして貶める」ことへの反旗のようでかっこいいなぁと思っていたのだけど、「上」グループの美の範疇に収まる美を獲得して「上」グループを見返しても『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』に書かれていたように、相手ルールにのっかったリベンジだから、自分と同じような被害者を産み続ける構図になってあまり意味がない。

元々相手側に有利なルールにのっかってリベンジすることは、相手に追従することにもなるだろう。

それではいつまでも相手の支配領域から逃れることができず、例えリベンジ出来たとしても、誰かのルールにのっかる癖が付いている人は、またいつかその相手とはまた別の誰かが決めたルールに巻き込まれ、望みもしない勝負の渦中に放り込まれることになるだろう。

 

結佳は誰かのルールではなく自分の行動規範を持つことができた。

それは自分を客観視しないで着飾る信子の美しさを見つけたからだ。

結佳は信子の美しさで救われたけど、信子はその美しさに気づかず、いつまでも上のグループの価値観やルールの中で人を憎み苦しんでいる。

結佳が信子の美しさを見つけたように、信子も相手ルールに従わず自分の美しさを見つけられたらよかった。

「見返すための美」ではなく、「自分が求める美」を見つけられていたらよかった。

 

 おわりに

今回もそうだったけど、小説を読んでいるだけでは小説のことがよく理解できないな、小説だけを読んでるようじゃ小説を深く読むことができないな、と思うことがよくある。

「この小説の登場人物たちの背景にはこういう事情や雰囲気がある」とかそういうことを小説ないで読み解くことができる人もいるんだろうけど、私にはなかなか難しい。

一回小説以外の本を経由しないと小説が読めないというのは、力不足が露呈するし、なんだかカンニングでもしているような気分がするけれど、無知な状態で読んだ本と、ある程度知識を入れて読んだ本では、見える景色や色合いが違ってお得でもあるなぁと思う。

 

フェミニズムに興味を持って読んだ本がこんなところに影響をするとは思っていなかったけど、でも意外ではない。

本を読んでいくっていうのはきっとこんな風に思いもよらない方向に影響や刺激を与えることだと私は知っている。

本は一冊一冊が独立した別々の存在だけど、たくさん読めば読むほど相互に絡まり合って影響しあって育っていく生命体のようなものだ。

もっともっと複雑に大きく育てていきたい。

 

 

しろいろの街の、その骨の体温の (朝日文庫)

しろいろの街の、その骨の体温の (朝日文庫)

 

 

 

メロスのようには走らない。~女の友情論~

メロスのようには走らない。~女の友情論~