うちにはWi-Fiがない。
折に触れては何度もWi-Fi欲しいな、という願望が浮かんでは沈んでいくんだけど、どうにも踏ん切りがつかない。
何度かプランを調べたこともあった。
住んでいるアパートがWi-Fiの工事かなんかをしたらしく、それに漬け込むかのごとく何回か営業の人も来た。
その度に、いいなぁWi-Fi。Wi-FiあったらYouTubeもアマプラも見放題だしゲームもTwitterも速度制限気にせずやりたい放題だしなぁ。
なんて思うんだけど、どうにも踏ん切りがつかない。
だって絶対に時間が溶ける。本当に見たいかどうかわからないYouTubeや本当に続きが気になってるかわからないドラマをだらだら見てしまう。惰性でゲームやTwitterやり続けちゃう。
そしてそんな自分にちょっと嫌気がさすのだ。
そして何より読みたくて買った本や読みたくて借りた本を読む時間が減る。
だからうちにはWi-Fiはいらん!導入せんぞ!と思ってたんだけど、昨日もWi-Fi営業の人が来た。
プランを聞かされまたしても揺れる心。
いつになったらWi-Fiに心惹かれなくなるのだろうか…。
昨日から読み始めたのは最果タヒさんのエッセイ『「好き」の因数分解』。
最果さんの言葉選びの感覚や言葉と言葉の組み合わせが好きだ。
自分の中にはなかった感覚や今まで意識したことがなかった自分の心の中の片隅に触れられたような気がして新たな感覚がひらく。
そういう経験をしたくて、言葉によって感覚や世界を開いていきたくて本を読んでいるってところもあるんだろうな。
そして、新しい感覚が開くだけでなく、十分知っている感情にも新しい言葉をくれる。
たとえば、私がさっきだらだら書いただらだらスマホをいじってしまうことについて最果さんはこう書いている。
毎日が新鮮だと思えなくなったから、こんなにも日々がつまらないんだろうか。iPhoneを見ていると、ふと、急に何もかもが面白くなかったような気がする。楽しいことがある気がして、そしてその予感だけでずっとずっとiPhoneを触って、知りたいことを知って、ゲームをやって、ニュースを見て、そしてその予感が予感のまま、実感にはならずに消えていく。楽しいつもりでいても、それはただ「いつか楽しくなるはずだ」という気持ちで退屈をごまかしていただけなのかもしれない。
そうなんです。「なんかあるかも、楽しいことが」と思って見続けてしまうんです…。
そしてだいたいない。
テレビでも言ってたな。1日に満足しなかった人ほど寝る前にスマホをいじり続けるって。
スマホをいじり続けて溶けていってしまう時間は「楽しいことがあるはず」という予感だなんて思わなかった。でも確かにそうなんだ。
だらだら過ごしている時間に、だらだらした気持ちにこうして言葉を与えると、何か存在感が与えられて確固としたものが見えてくる。
だからと言って時間が溶けていることにも無為に過ごしていることにも意味は生まれないんだけど。
最果さんの文章を読んでいるともっと感覚を言葉にしたいし、もっといろんなことを感じられる人でいたいな、と思う。