本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『さらさら流る』 柚木麻子

たとえその時は淀んだ汚い水でも、心がけ次第で、時間はかかっても自然の持つ力がいつか浄化してくれたのではないだろうか。先ほどの湧き水を思い浮かべると、その確信は強くなる。澱も淀みも光を浴びて、次々と沸き上がる力に押されて、さらさら流れていってしまうのだから。

 

自分の不幸が例えば失恋したとか、聞いたことのある病気や経験したことのある怪我で治る見込みがあるものとか、そうしたわかりやすい不幸でない場合、話しても笑われるか困らせるだけなのだと思って、そしてそうした反応はすごく真っ当で、当たり前のことで、仕方のないことなのだと、誰にも話さず蓋をし続ける努力をした。

だけど、蓋をすることでその思いを閉じ込めることは本当にできるのだろうか。

物語は光晴と菫が東京の暗渠を辿っていくシーンから始まる。東京にはオリンピックの際、街の景観を整えるために蓋をしたり、埋設して人や車が通れるようにした川がある。普段歩いている道の下には目には見えない川が流れているのだ。

柚木さんの作品は楽しみながら軽く読めるものと、ずしりとした重みがあるものの、2パターンがあると思うけど、これはどちらでもなかった。

軽くはなく、だけど重くもなかった。

ページをめくる手が重く感じるほど、ずしずしんとした重さやどろどろした暗さはなかった。
私が、家族の仲が良くて愛されて育った菫とは対岸に位置する光晴側の人間だから、その重みが馴染みのあるものだったからかもしれない。
わたしには自然にさらさらと流れていくように見えた。

見えないようにして蓋をした暗い思いはどうなっているのだろう、本当にどろどろしているのだろうか。さらさらと流れていく暗い思いだってあるのではないだろうか。

きっとそれをどこにも流れ出さないように堰き止めるから、どろどろと足元に絡みつき引きずり込まれるようなものになってしまうのだ。

人は明るい思いだけで生きているわけではないから、暗い思いがさらさらと流れていくのを許してもらえないだろうか。

それで離れて行く人はいるかもしれないけれど、菫が自分の強さを信じて、信じることを許そうと思ったのと同じように、流れ出してしまうのを許そうと思う。

 

 

 

『キャッシュとディッシュ』岡崎祥久

俺みたいな暮らしだと、たった七年ぽっちじゃ。年齢はふえてるでしょうけど、誕生日ごとにちゃんと祝って一歳ずつ加齢するかんじじゃなくて、なんとなく、あいまいに経年変化です。というかまあ、経年劣化です。

 

叔父の遺品だった皿のようなものは、そこに入れた水をかけた品物が現金になって返ってくる魔法の皿だった。
例え使い古したスポンジでも、皿に入った水をかけると新品で買った時の値段で現金が返ってくる。


この作品を読んだ後に街を歩くと、どれもが金に見えます。

あれもこれもどれも誰かが金を出して買ったもの。誰かの労働の対価。

 

読む前から積ん読の山を見て、これ総額いくらなんだろうなんて考えていたけど、そりゃすごい額なんだけど、積ん読だけじゃなくてどれもこれもお金がかかっているのである。それ相応の。

 

私はお風呂に入るのが面倒で、ご飯食べるのが面倒で、とにかくいろんなことが面倒で、いかんこのままじゃ生きるのが面倒になって限りなく死に近づくぞ!と思ったのを思い出すぐらい、この話の主人公が色んなものに水をかけまくって現金化しまくる。そしてどんどん部屋が空っぽになってくる。

 

生きるのに必要なものを全部全部現金に戻していくと生きることの意味がわからなくなってくる。それは限りなく死に近づく行為にみえる。

そして読みすすむにつれ、怖い予想がたってしまう。

 

自分がお金を払った品物に水をかけると現金が戻ってくるから自分の労働の対価だと思ってたけど、子供の頃にお小遣いで買ったものも現金になって返ってきていた。

これはただのお小遣いなのか。それともお使いとかの報酬としてのお小遣いなんだろうか。

お小遣いも返ってきたってことは労働の対価としてではなくて、生きることにかかるお金とか、生を充実させるためにかかるお金に焦点をあてたかったのだろうか。


確かにお金なくなるとまず娯楽が削られる。私もお金に困ったらとりあえず本とかDVDを売るだろうな…。

 

この作品は2020年の文學界8月号に掲載されていたもので、文藝の「はばたけ!くらもと偏愛編集室」を読んで手に取った。

この書評読んでなかったら絶対読めてなかった。読めてよかった。倉本さんも書いてたけど、文体があっさりしすぎてて怖さを引き立ててほんとに怖い。でもくせになる。

 

↓こちらで途中まで読めます。

books.bunshun.jp

 

文藝の「はばたけ!くらもと偏愛編集室」を読もうと思ったもともとの倉本さおりさんのツイートがこちら↓

この連載面白かったな…。

https://twitter.com/kuramotosaori/status/1350438157343358977?s=21

 

 

 

『消失の惑星』 ジュリア・フィリップス

離れていれば、誰でもよく見える。たまにしか会話をしなければ、相手が口にするどんな言葉も耳触りがいい。夫との電話が終わると、ナターシャはまた滑りはじめ、塀のそばにいる弟と、そのとなりで眼鏡を磨いてる母親の前を通り過ぎた。すぐそばにいる者を愛するのは難しい。

 

小説の中に漂う空気がとても好きだった。

幼い姉妹が行方不明になった事件を通奏低音として、境遇も年齢も違う女性たちの生きづらさを連作短編の形で書いている作品なんだけど、静謐でどこか冷え冷えとしていて悲しい。

だけどその先の希望を無闇に抱かせない穏やかな悲しみで、その筆致が心地よかった。

 

引用部分は、夫が潜水艦で仕事をしていて時折出張のような形で離れ離れに生活をしている女性が語り手のパートだ。

 

夫の居ぬまに家に訪ねに来た母親と弟、子供達と遊びに来たスケート場で、潜水艦にいる夫との甘やかな電話を終えた彼女は、その甘やかさを引きずることなく現実へと戻りまたスケートを始める。

離れているからこそ相手がよく見え、愛することも容易に感じるのだという冷え冷えとした諦念とスケート場の光景が印象的なシーンだ。

 


もう一つ印象深かったのは、心配性の恋人に束縛される大学生のパート。

心の奥では閉塞感を感じつつ自分を騙しながら恋人と過ごしてきたけど、その閉塞感を打ち破る新たな男性との出会いを通して、人生の新たな局面に浮かれ始める。だけど結局は何事もなかったように、新たな期待なんてなかったかのように元の恋人との生活に戻ってしまう。

新たにやってきた未経験の希望にしがみつくより、肌馴染みのいい惰性と諦念に流されてしまうその感じ。

そのスムーズな戻り方、希望の手放し方、その諦念に身に覚えがあった。

 

他の女性たちのパートでも灰色で波もない湖面のような空気が漂っていて、ずっとひんやりしてて平熱が低い感じで、それがすごく居心地がよかった。

 

これはこの作者の文体によるものなのか。

でもこのひんやりのした感じは舞台がロシアのカムチャッカ半島のせいもあるかもしれないし、書かれてる季節のせいかもしれないし、表紙のイメージに引きずられてるかもしれない。でもそれら全部がそう感じさせていて、それら全部が小説だとも思う。

 

 

「すぐそばにいる者を愛するのは難しい」という話でいうと、江國香織の『赤い長靴』を思い出す。

後輩がこの小説を読んで、「夫と一緒にいない時の方が夫のこと好きみたい」っていう一節に共感したという話をしていて、なんかわからないけどすごい大人だなぁと感じた思い出。

でも今ならわかるよ。

目の前にいる相手よりも、頭の中にいるその人、美化されたり想像の中のその人の方が好きってこと。

わかる日が来るとは思っていなかったけど。

 

 

『人形』デュ・モーリア

幽霊とか怪奇現象とかそういうものじゃない怖い話、人間心理に蔓延る暗黒面を書いた怖い話好きだ。

よくいうイヤミスのようなものだけど、ミステリは特に必須でもなくて、でも日本のものじゃないのがいい。

海外文学でなくてはだめ。日本の厭な話とかそういうのはど真ん中にダメージを喰らいそうなので避けたい。

海外文学でも古いのがいい。舞台設定が自分が生まれる前であると尚よい。

ちょっとファンタジーとかSFが混ざってて非日常感があると尚更よい。それが私が怖い話厭な話を楽しめる距離感。

そんな私にぴったりなのがデュ・モーリアの作品だ。

ヒッチコックの映画『鳥』の原作を書いた作家でもあることからわかるように、人間心理を巧みに描く作品が多くある。

 

 

モーリアの『人形』は人間の狡さや虚栄心、独善的で自分本位であることにすら気付きもしない純度100%のエゴイズム、人間の暗部を書いている短編集だ。

 

だけど、読んでいて目を背けたくならないのは、そこまで醜悪に感じないのは、モーリアが人間のそうした部分を肯定も否定もせず透徹した、だけど鋭い目線で書いているから。
同情や糾弾などを交えずに、それそのものを切り取り不純物を削り落とすように書いているから。だから読み手は丁度いい距離感でそれを観察するように読むことができる。

 

時折、人の狡さを書いた作品に触れたくなるのは怖いもの見たさという興味もあるけど、これから先何を見てもびっくりしないように、その時感じるであろう怖さやおぞましさを少しでも抑えられるようにという予防接種のような役割を期待してるのかもしれない。

 

綺麗なものばかり見てると、醜悪なものが現れた時に動揺するし、何もわからないまま、わかろうとしないまますぐに拒絶してしまうかもしれないから、ある程度の免疫がついてた方がなんかいろいろ本質とか背後にある構造とかにも目が向いていいかもしれない。

 

実際に経験しないですむのならそれが一番いいのだろうけど。

 

 

 

 

『「超」入門 失敗の本質』 鈴木博毅

大東亜戦争での日本軍の組織的な失敗を分析した『失敗の本質』をわかりやすくビジネスにも援用できるように解説した『「超」入門 失敗の本質』を読んだ。

 

この本の序章で作家の堺屋太一東日本大震災を「第三の敗戦」と表現したとある。

第一の敗戦は幕末、第二の敗戦は太平洋戦争(大東亜戦争)だそう。

『失敗の本質』が書かれたのが1984年で東日本大震災前だし、『「超」入門 失敗の本質』が書かれたのが2012年で今のコロナ禍前だ。

この本が書かれて約10年日本は今、第四の敗戦の最中にある。

 

コロナ禍前東日本大震災前に日本的な思考法や日本人特有の組織論の脆弱性や幼さ器の小ささが指摘されていたのに、なぜ今第四の敗戦といってもいい状況になっているのだろう…と無力感を覚えた。

何も変わっていないのだ、『失敗の本質』で書かれているダメ組織ダメリーダー達と今の日本のお偉方が。

 

ここ数年で日本がどんどん後進国になっている感じ、取り残されている感じがしていたけど、ここまでなんにも変わってないんだったら、敗戦を経験した時のままで時が止まっているなら、そりゃそうなるわな…と悲しい納得をした。

 

著者が東日本大震災をきっかけに

水面下で抱えてきた多くの社会問題、経済の課題、国民生活や政治組織の問題が一気に噴出していると、私たち日本人は感じているのでないでしょうか。

と言っているけど、これもまさにそうで、今まさに感じていることで、この本が全く古びてないことが虚しい。

 

 

もともとこの本を読もうと思ったのは、三宅香帆さんがオリンピック開会式の不甲斐なさをかいたこの記事を読んでだった。

コロナだけでなく、オリンピック開催にあたって、開会式関連でも唖然とすることがっかりさせられることばかりだった。

 

note.com

 

この本に書かれている日本の組織とリーダーのダメなところを読んでいるとどんどんこのリーダー像が森喜朗として像を結んでいく…。

 

開会式にまつわるごたごたには

日本軍の上層部の特徴

・現場を押さえつける「権威主義

・現場の専門家の意見を聞かない「傲慢さ」

が当てはまりそうだし、

チャンスを潰す人の三つの特徴

①自分が信じたいことを補強してくれる事実だけを見る

②他人の能力を信じず、理解する姿勢がない

③階級の上下を超えて、他者の視点を活用することを知らない

も当てはまりそう…。

 

改めていうけど、この本約10年前に書かれた大東亜戦争の失敗を分析した本だ。

なぜこうも変わらない…。

 

上層部が徹底的に前線や下層にいる人の声を聞かないから変革が起きないんだろうか。

何十年も変わらなくて何回も同じことを繰り返して敗戦といってもいい経験を何度もしてそれでもより良い歴史を作っていけないのはなんでなんだろう。

上がダメダメなだけじゃなくて、下も「このままじゃ本当にやばい」っていう危機感が足りないからもある気はする。

 

今回この本を読んでただ「やばい」と思ってるだけでなく、何がどうやばいのかどういう思考パターンやどういう仕組みの組織がやばいのか勉強できてよかった。

 

 

 

『声をあげます』 チョン・セラン

韓国SF短編集チョン・セランの『声をあげます』を読んだ。

 

 

今が過去になって、その時の未来だったものが今になってしまえば、その時の今だった過去を批判するようなことはなんでも言えてしまう。

 

ある程度距離ができると冷静になって問題点を炙り出し批判することができるし、そうした振り返りは大事だけど今の人間が、俯瞰で物事を見られる上段に立てた優位性だけを持って批判していいものだろうか。

その時代を生きた人にしかわからない感覚ってあるはず。例えそれが冷静になったら間違ってるとしか思えないような感覚でも…。

この小説で言えば、昔はあんなものを食べていて野蛮だったとかなんとかそんなことを言っていいのだろうか。

 

 

この短編集にも韓国文学特有のユーモラスな会話や憎めない人という要素が散りばめられていた。

この独特な感じはなんて言えばいいんだろう。

飄々としているというか間が抜けているというか気が抜けるというか。この空気感が好きだ。

こうした人物や会話があるから、悲愴感漂う話にもユーモアを感じるし、ユーモアを感じることで悲愴感も高まる。

このユーモアと悲愴感のバランスを保ちその相乗効果を巧みに操り編み上げられるものが韓国文学特有の悲哀だなぁと思う。

 

 

韓国文学はまだ一作しか邦訳されていない作家が多い中で、チョン・セランは亜紀書房で「チョン・セランの本」というシリーズがあって3作も訳されているし「あとなりの国のものがたり」シリーズでも第1作目として『フィフティ・ピープル』がある。比較的多くの作品が訳されている作家といっていいだろう。

亜紀書房だけでなく、他の出版社でもクオンが「新しい韓国の文学」シリーズの一冊としてチョン・セラン作品で初邦訳となる『アンダー、サンダー、テンダー』を出している。

チョン・セランは韓国文学を日本に紹介するシリーズにはだいたい顔を出していることになる。それだけでなく独自のシリーズまでできちゃうなんてすごい。

 

チョン・セランも韓国文学も読んだことのない人は、韓国文学初心者にオススメの本として『フィフティ・ピープル』がよく挙げられていることだし、この作品から入って、そこから「チョン・セランの本」シリーズで他のチョン・セランの作品を読んで韓国文学に慣れてきたら「新しい韓国の文学」や「となりの国のものがたり」シリーズにある他の作家にも手を伸ばしてみるといいかも。そこには韓国文学の沼が待ち受けているかも。

 

 

 

 

 

『宵待草夜情』 連城三紀彦

思い出しても記憶の闇に埋まるように頼りない輪郭しかもたない風景が、私の心を惹きつけ、苦しめるのだった。

 

娘の躰は、風を掬ったかのように何の手応えも私の手に残さず水底の方へ沈んでゆく木の葉を思わせる頼りなさで畳の上に落ちた。

 

 

近代文学と官能小説を掛け合わせたかのようなミステリ短編集。とにかく情念がすごい。明治大正昭和と時代を下るにつれ段々と薄れていった情念の原液を見た。
そしてその情念を感じさせる動機もすごい。
一目で見抜けない捻くれた独特でだけど迫力がある動機。
それだけ聞くと嘘っぽくていかにも作り物めいたものに聞こえるけど犯人の心情へと巧みに誘ってくれるから真に迫り息づく動機になっていた。


男性作家が書く女性って「こんな女いる?」って思う人も多いけど、この短編集に出てくる人たちもそうで、でもそれでもいるような気もしてきちゃう…。そんなリアリティがあった。

あと文章がすごく綺麗。妖しくて艶っぽく粘度の高い文章は日本人の感性や血を感じさせられる。

ミステリなんだけど、動機と文章がエンタメというより純文学だった。
名前は知ってたけどこんなすごい作品を書かれる方だとは。すごい。はまりそう。

 

 

 

ちなみにこの小説を読むきっかけになったのは新井久幸『書きたい人のためのミステリ入門』という新書。ミステリ新人賞候補作をたくさん読んできたりデビューした作家を支えてきた編集者によるミステリ解説書なんだけど、ミステリと一口に言ってもこんなに多様な語り口があるのか!と楽しく読めて、自分もミステリオタクになりたい!となった一冊。