「でも、多様性っていいことなんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、どうして多様性があるとややこしくなるの」
「多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃないほうが楽よ」
「楽じゃないものが、どうしていいの?」
「楽ばっかりしてると、無知になるから」
ヴォルテールは「私はお前の言うことに反対だ。でもお前がそれを言う権利を命をかけて守る」と言ったとか言わなかったとか。
多様性ってなんなんでしょうね。なんでもかんでも肯定することが多様性だとは思えないけれど、そうすると、どこからどこまでを多様性の範疇にするのかという問題が。
この本は日本人の著者とアイルランド人の配偶者の間に生まれた息子が、「元底辺中学校」、「殺伐とした英国社会を反映するリアルな学校」に通いはじめることによって、人種の壁、貧富の壁、教育の壁にぶち当たっていく様が綴られているエッセイ。
著者もかっこいいけど、その息子がなんともフラットで清々しくてかっこいい。
真っ直ぐに真っ当に怒ることができる人が持つ特有の清々しさがある。
この本を読み始めてすぐに気づけたことは、差別的な嫌悪を示す人って嫌悪の対象を間違えているのではないか、ということ。
目の前にいるその人のことが嫌いなのに、その人の民族まで押し広げて嫌いになっているというか。
自分が何に嫌悪してるのかを掘り下げていくと、結局自分の不甲斐なさに対しての嫌悪だったり、ただの幼稚な自己愛に行き当たることがあるだろう。
自分の力不足を人のせいにしてごまかしてたりとか、自分の惨めさを誤魔化したくてとりあえず優越性をアピールするために誰かを否定したりとか。
それはつまり、自分が何を嫌悪してるのか直視できなくて、目の前の人に八つ当たりして、その人の国籍や民族にまで盛大に八つ当たりしてるっていうこと。
冷静に考えれば1つの民族に帰属し1つの国籍を持つ人たちにだって色んな性質を持つ人がいることわかりそうなはずなのに。
それを大きすぎる括りでまとめて嫌悪する人は何かが見えていない、何かを見ようとしていないとしか思えない。
ただそれだけで誰かのことや人種を嫌悪している人を多様性の中にいれることはできるだろうか。
わたしはなんかやだ。