本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

『フライデー・ブラック』 ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー

どんな理不尽なことにだって当事者なりの理はある。

傍目にはどんなに間違って狂ったものに見えても。

 

ひとつひとつの間違った小さな理が積み重なって大きな理不尽になっただけで、そこには当事者なりの理がある。

 

 

『フライデー・ブラック』巻頭の短編、「フィンケルスティーン5」はアフリカ系の少年少女が「子どもたちが襲われる」と不安に駆られた白人男性にチェーンソーで惨殺された事件が主題となっている。

 

自分の子供を守るために5人の黒人少年少女を惨殺した人間にも、この犯人が無罪となったことに抗議するため被害者の名前を叫びながら無差別殺人を繰り返す人間にも、当事者なりの理があった。

 

こちらが理不尽だと思うことをするそちらにもそちらの理がある、こちらがそちらの理を理解していないだけで。

ということがあるのかもしれない。

急に暴動を起こしたわけじゃない。その背景には何があったのだろう。

今のような差別が生まれたのはどんな背景があったのだろう。

 

暴力には暴動で、理不尽なことに理不尽で対抗するようなそんな事態にまで追いこんだのはなんだったのだろう。誰なんだろう。

 

 

 

フィンケルスティーン5」を読んでいてBlackLives Matterで暴徒化するデモ隊を思い出した。そして暴徒化するデモ隊をTwitterで見ていて思い出したのが1900年代の英国で女性の参政権を求めて過激な行動を繰り返したサフラジェット達だった。

 

彼女たちは女性の投票権獲得のために、ショーウィンドーへの投石や郵便ポストへの爆弾の投下など過激な行動をし、テロリストと呼ばれていた。

彼女たちの行動は確かに過激で危険なものだったかもしれないけれど、そうした行動に彼女たちを駆り立てたものがあって、そうでもしなければ誰も彼女たちのいうことを聞かなかったのだろう。

 

なぜ痛めつけられる側はお行儀よく大人しくしていなければならないのだろう。

なぜ向こうはこちらを痛めつけるのにこちらは反撃してはいけないのだろう。

じっとこらえて痛めつけられ続け、力に屈して言葉のみで反撃しても何も変わらない。

 

車椅子ユーザーの人が介助者なしでバスを利用できるようになるのにも、彼らは強硬策を取らなければならなかった。

介助者なしでバスに乗ることが許されなかった時代があって、何度要請しても聞き入れられず、何本ものバスが発着するターミナルで始発のバス数台に支援者たちが車椅子とそのユーザーを乗せ立ち去るという行動を起こした。

バスの中、車椅子に乗ったユーザーは自分の権利を声高に主張する。

その映像からは障害者が強いられている不自由が切実に伝わってきたけれど、少し前のわたしならこうして公衆の面前で声高に怒りを表することを「みっともない」と思ってしまっただろうなとも思って、そんな自分に恥ずかしさを覚えた。

 

その時はまだわかっていなかったのだ。

言葉で丁寧に冷静に伝えたところで何も変わらず聞き遂げられないことがあるってことを。

 

言葉ではどうしたって届かないものがある。

 

言葉でいくら言ったところで通じないから行動にでる。

言葉ではどうしたって届かない、言葉で「やめろ」と言ったところで何も変わらない。

そんな言葉への無力感が差別に抗議して暴動を起こす側にも、その暴動を止めたい側にもある。

言葉への無力感に駆られて暴動が起き、その暴動という行動を前にしてまた無力感に駆られる。

 

 

ワイドショーでBlackLivesMatterを取り上げていた時に「こういったことが起きて初めてこうした差別があったことを知ることができた」と私と同世代のタレントが言っていたのを見て本当に驚いた。

すぐに他の、ちょっと上の世代のコメンテーターから「前からこういう事件は何度もあった」と言われていたけど、確かに前からこういう事件は何度も繰り返されていて、いつになったら何度繰り返せばこうした差別で人の命が失われることがない世界になるのだろうと思っていたので、「初めて知ることができた」という人がいて、本当に驚いた。

「初めて知った」ではなく「初めて知ることができた」という風に言って「尊い犠牲」ということにしているのも違和感があった。

犠牲者は尊い犠牲になりたくてなってるわけじゃない。でもそうして美化されて未来への教訓という形にされ、犠牲になった人は今までに何人いたか。

そうした「尊い犠牲」のことを今まで何も知らなかったのに、今回初めて知った人がまた「初めて知ることができた」と言ってまた「尊い犠牲」と増やして行く。

 

誰にだって知らないことはあるし、知らなかったものを初めて知るという瞬間は誰にだったあるから、その瞬間がたまたま今回だったのかもしれないけれど、無知は簡単に責められるものではないけれど、それにしたってそのタレントのその立場でそれを今言うのはものを知らなすぎだと思った。

 

でもそんなものなのかもしれない。

今回のBlackLivesMatterでも何も変わらないのかもしれない。

フィンケルスティーン5」に書かれたような、黒人の少年少女が白人の男にチェーンソーで首を切られるといったような、そうしたもっと過激で残虐なことが起きないと、起き続けないと差別も悲劇もなかったことにされて忘れ続けられて、「初めて知ることができた尊い犠牲」が増え続けて行くのかもしれない。

 

 

フライデー・ブラック

フライデー・ブラック