某月某日
『蝶のしるし』2編目の「別の生活」を読む。
つ、つらい!こういうあり得たかもしれない生活や人生を見せられるのが1番つらいよ!残酷だよ!
もう若くないけど年寄りでもないし、あり得たかもしれない人生への想像力は枯れてないし、諦めもついていない、「あり得たかもしれない」がまだ生々しく、じゅくじゅくしてる傷口のような時期がきっと人生にはあり、その時期はたぶん中年の入口。「あり得る」が「あり得た」に固定し始める時期だ。
可能性はあったけど、今はもうなくて決して引き返せないところにいる。
今でも、自分が後悔しているとは言わない。ただ異なる道を歩いただけだ。どの道の女性もみんな泣いたり笑ったり叫んだりしている。それぞれ違う理由で、寂しかったりむなしかったり。
某月某日
『蝶のしるし』3編目の「わたしのvuvu」を読む。母娘3代の話で、その3代の真ん中の母が、自分のルーツを誇りに思うのか捨て去ろうとしているのか曖昧なところにいる。その姿が1番下の世代の幼稚園児の語り手の目を通して書かれていたのが印象的だった。
幼稚園児の目線がリアルで、いかにも子供が考えそうなこと、感じそうなことなのがすごい。
しかし、私は自分が幼稚園児だった頃のことなんてほとんど覚えていない。それなのに「いかにも!」と感じるというのがよくわからない。「これは創作としてよくできてる」と感じてすごいと思うのだろうか。
作者的には自分の幼稚園児時代のことを覚えててそれを生かしているだけなんだろうか。
でも私は覚えてないくせに、「いかにも子供が考えそうなこと」だなぁと思ってる。自分の経験は覚えてないのに、何と比べて子供が考えそうだとかそうじゃないとかがわかるのか。
某月某日
『タイムトラベル 世界あちこち旅日記』を読む。
益田ミリさんが過去に行った海外旅行を振り返り、思い出したり思い出さなかったりしたことを書いたエッセイ。
名古屋の栄にある文喫栄で買って、そこの有料ゾーンでちょっと読んで、帰りの新幹線でだいぶ読み進めた。つまり旅先で買って読んで帰途でも読んだ。
ミリさんが学生時代に行ったパリとかロンドンのことが書かれているけど、ミリさんは覚えてないことも多く、当時の写真を見ても思い出さず、きっとこんなふうに感じたんだろうなぁと過去の自分を想像したりしている。それがなんかいい。
旅というのは未来の自分の投資ではない。その時の自分が楽しかったらいい。例え未来の自分が、過去の旅先で何を見たのか何を感じたのか覚えてなくても。
某月某日
『おまえレベルの話はしていない』を読む。芦沢央さんが純文学の文体で挑戦したという「芝」パートといつものエンタメで書いた「大島」パートの2つに分かれている。
芝と大島は将棋の世界で棋士を目指して切磋琢磨していたが、大島は高校卒業前に奨励会を辞め、芝は残り続けている。
自分の出してきた選択が間違え続けていたのではないかと疑う人生と、自分の下した決断積み重ねてきた選択は正しかったと思い込み続けようとする人生。
同じテーマを純文学とエンタメという形式の違いで書き分けているのが面白かった。
先日村崎なつ生さんの『ハルシネーションの庭』を読んで純文学的だなぁと思い、同じ時期に読んでいた関かおるさんの『小麦畑できみが歌えば』はすごくエンタメ的だったので、両作品を比較しつつ、純文学とエンタメの違いはなんだろうと考えていた。そしてちょうど今日、純文学はメリーゴーランドでエンタメはジェットコースターなのでは?と思い至ったところ。
芦沢さんが純文学として書いたパートはメリーゴーランド的で、エンタメとして書いたパートはジェットコースターだったので、あながち間違いではないのでは?と持論への信頼度を深めた。だがまだまだ考える余地はある。もっと的確な言い方がきっとある。
某月某日
とある小説を読む。
様々な恋愛関係、マイノリティでアブノーマルな恋愛を書く中で、小説の核となる人物は恋愛をしないし、むしろする奴の気持ちがわからない、なんで世の中こんなに恋愛で溢れているんだ、どこもかしこも恋愛恋愛!みたいな反恋愛至上主義のスタンスをずっと取っていたのに、最後の最後は恋に落ちておりそれがなんだか非常に残念だった。
自分は恋愛しないしその気持ちもわからないけど、自分には理解できない気持ちや色んな恋愛があることは否定しないという在り方が良かったのに、結局恋愛するのが普通で正常で可愛げがあるというメッセージと取れそうなオチが残念だった。
多数派の恋愛をする人達とアブノーマルな恋愛をする人達とそもそも恋愛をしない人という三角関係がこの小説の肝だったのではないのかっ!




