本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

46.『まいまいつぶろ』

直木賞候補にもなり、「本屋が選ぶ時代小説大賞」の受賞作でもある村木嵐『まいまいつぶろ』を読んだ。

 

徳川幕府第九代将軍家重と彼の通詞(通訳)を担った忠光を中心に巻き起こる跡目争いが主題なんだけど、この中心にいる二人が語り手になることはなく、二人の内心は霧に包まれており、周辺の人物がその霧に見出すもの映しだすもので物語が進んでいく。

その奥ゆかしさといったものがいい味をだしている。

 

忠光が通詞を担ったのには訳がある。家重は生まれつき麻痺があり口が回らず、誰一人として家重が発する音を言葉として聞き取ることができなかった。忠光に会うまでは。

家重の発する言葉を言葉として受け止め理解できる忠光はそれ以後、常に家重の側に控え通詞としての役割を担っていくのだが、当然それを快く思わない人間、忠光は本当に家重の言った言葉を伝えているのか、自分の都合のいいように変えて伝えているのではないかと疑う人間もいる。

そうした人たちにどうやって抗っていくのか、納得させるのかという二人の静かな戦いも心揺さぶられるものだったし、そうした戦いの中で家重と忠光の絆が深まっていくのも胸を熱くさせるものがあった。

 

家重のように体に麻痺があって、口が上手くまわらないというハンデを抱えていなくとも、人に自分の言葉がちゃんと伝わるという嬉しさは誰もが体験したことがあるはずだ。

自分の心を言葉に託し、それがそのまま誰かに伝わることの嬉しさ。100言ったら100伝わる人がいることの嬉しさ。100を伝えるために150にしたり、人によっては85にしたりと、言葉を足し引きしなくていい心安さと心強さ。

そうした心が通い合う喜びや、通じない悲しみ悔しさを知っている人なら、家重の喜びと悲しみが理解できるだろう。

 

この作品の良さはそうした誰もが経験したことのある喜びや悲しみを担保にしている。

けれど、家重が感じた心が通じ合う喜びは、誰もが経験できうるものではない障害者ならではの苦悩を担保にしたものだ。

それを健常者である我々が「わかるよ!その気持ち!」と軽々しくいっていいものだろうか。なんかちょっともやもやするものがある。

心が通い合う喜びは私と家重に共通するものだけれど、心が通い合わない苦しみは家重と私ではその根本が異なるもので、私は家重の苦しみを本当にはわからない。同じ体験ができない。ならば、喜びの部分も本当は違うのではないか。

家重の喜びは私には想像もつかない苦しみの中から生まれたもので、私の感じる喜びとは重さも感触もきらめきも何もかも違うものかもしれない。

それを「わかる!同じだね!」といっていいものなのか。

だけど、それが駄目なら、一体障害者と健常者はどうやってわかりあったいいのか。

 

もうひとつもやもやとしたのは、家重のことを「あれだけの障害を持って苦労して立派だな人物だ」としていたこと。

障害を持って苦労をするというのは家重にとって、そうしたくなくてもそうしなくてはならない当たり前のことで、それをいたずらに褒めたたえるのは相手をなめているような、自分と相手の間に線を引いて別世界の人間として持ち上げるというのはフェアではないように思える。

障害者を障害者という世界に閉じ込めているというか。

 

私の友人で自分に合う職場が見つからず転々とした結果、手に職を付け一国一城の主になった友人がいる。

私はそうして試行錯誤して自分に合う生き方を見つけた友人がかっこいいなと思ってそう伝えたことがあるんだけど、友人には「そう言ってくれるけど、やりたくてやったことじゃないし、初めからやらないで済んだならやりたくなかった」と虚を突かれ反省したことがある。初めから最初に就職した職場になじめていたらそれはそれでなんの問題もなかったから、それがよかったのだろう。

 

家重の忍耐だとか優しさなんかも障害があったが故の美点として書かれていて、障害があったからこそだみたいにいう人物がいた。それでいいのだろうか。障害があったからこそ得たものを手放しで称賛していいものだろうか。

 

人に言いたいことが伝わる喜びに関しても、人の美点に関しても、単純にその内容だけではなく、誰がどの位置に立ってどの目線から言っているのか、それはフェアなのか

誰かを貶めていないか無自覚に傷つける発言になっていないか、どうしたらそれを一瞬で判断できるようになれるだろう。

それができなければ、人と会話することさえままならない。