本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

Log10 やがて眩しい嘘となる

某月某日

『考えるヒント』を読む。

ヒトラーの話が出てくる。

 

人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、政治の構造は、勝ったものと負けたものとの関係にしかあり得ない。

 

ヒトラーが『我が闘争』という本を書いていたことを思い出した。

 

人は獣であり人生は争いであるという姿勢はちょっと前に読んだあらすじを読んだ『時計じかけのオレンジ』の主人公みたい。

 

今は、人間には闘争心があるんだ!と思えない時代だけど、不景気に不景気が続いて窮鼠猫を噛むみたいな闘争心で排外主義に走ったりしているのだろうか。

 

 

 

 

某月某日

『対岸へ渡ってしまう前に』を読む。文フリで買ったあわいゆきさんの日記本。

日々の出来事や感情が綺麗で可愛い文章で書かれていて、私はこんなふうに書けないなぁと思う。

綺麗な文章は書きたい。でもそれをするには感じたことをそのまま書くのではいけない。もっと削ったり足したりどこからか持ってきた綺麗な言葉をいくつも貼り付けないと。

感じたことを書けばそのまま綺麗な文章になる人じゃない、私は。

文章を書くことは嘘をつくことだなぁと思う。

正真正銘の嘘よりは軽いけど、会話をしていてちょっと間違えただけなのに「うそうそ!」という嘘よりも重い嘘を毎日つきづけている。

 

某月某日

『結婚式のメンバー』を読む。

読み始めてしばらくして、「これは『マイガール』なのではっ?」となる。

マイガール』って言って通じるのはアラフォー以上だがそういう映画があったのですよ昔。元気いっぱいで破天荒な女の子と眼鏡でおどおどしてる男の子のジュブナイルみたいなお話が。

日本だとこれは性別が逆になる。破天荒な男の子とお淑やかな女の子になる。破天荒な女の子の場合はなぜか余命いくばくもなかったりする。

 

 

 

某月某日

『火星の女王』を読む。

ドラマを先に見て最終回を迎える前に原作を読み始め読み終えるという私には珍しい体験。
ドラマと小説というメディアの違いがなんとなく見えて面白かった。
小説の方が好きかもしれない。メディアとしても作品としても。

 

ドラマの方は、ドラマという枠に当てはめようとしたら、そりゃそうなるよなという展開と構成だった。

映像はどんどん進んでいくから、見る人が咀嚼する時間を取れない。だからお決まりの展開や関係性だったり、お決まりの意外性だったりするんだろうか。

小説はそこらへんある程度自由というか、読むスピードを落として咀嚼する時間を作れるし、映像では説明できない内面を言葉で説明してくれ、描写してくれる。

小説はわかりにくい展開を言葉でわかりやすいものにしてくれて、話に置いていかれないようにしてくれるから、複雑で深遠な物語が作れるのだろうか。

もちろん小説にはできないことしてる映像作品はあるだろうし、小説という形式がこの世で1番!と言いたいわけではないのだけど。

 

作品のメッセージを伝えるために、受け入れやすいよくある展開を取るというのは、作品の質にとってどうなんだろう、と考えたのだった。

 

 

 

 

某月某日

『虚弱に生きる』を読む。

わかるーわかるよー。日々頭の中は健康が大きく占めていて、予想のつかない体調の変化に怯えている。
体力をつける体力がない。体に負担のかかるファッションはできない、着るのも簡単洗うのも簡単な服しか着れない、足元は常にスニーカー。わかるー。

結局、体が資本で健康が第一で、まずは健康を手に入れないと、健康以外の夢も希望も持てないのだ。

 

 

 

某月某日

『まぶしい便り』を読む。すごーーーく良かった。

愛しか。愛しかない。この小説の主成分は愛だ。

 

読んでいて何度も鼻がツーーーンとなる場面があった。泣きはしなかったけど、小説で泣くことなんてほぼなくて、「泣きそう」というだけで私にとっては十分えらいことなのだ。

でもこれは年をとって涙もろくなっただけなのかもしれない。そして「年をとって涙もろくなった」ということの意味が未だによくわからない。

小説は変わらないのに私は変わってしまう。いや私が変わったから小説も変わったということでいいのか。

それは揺らがない価値観というものがないということで、ちょっと心もとなくなる。

この小説も大したものじゃなくなる日がくるんだろうか。愛とか人間とかなにもかも信じられなくなる日が来ても、この小説のことを「良い小説だった」といえるだろうか。

いえる私でありたいけれど。