本読みの芋づる

芋づる式読書日記。

十一月の扉をあける。

11月になると必ず思い出す本があります。

 

あっという間に11月になってしまって、11月も半分になってしまって、今年もそろそろ終わりで、この1年に起こったことなどを思い起こしたりしてるうちに、「あれ?これ今年じゃなかったっけ?去年?もっと前?」と記憶の時系列がおかしくなる時、頭の中に浮かぶのは、去年も今年も一昨年もまとまってこねられてのベーーっと伸びたお餅。

 

今日は私がそんなイメージを持つまでに至った、いやそれだけでなくもっと大切なものを手渡してくれた、『十一月の扉』と、そこから連想する2冊についてお話します。

読めば子供の頃の楽しかったことや苦しかったことが鮮やかに蘇ってくる、そんな本3冊です。

 

目次

 

 

『十一月の扉』

中年すぎてからの時間って、べったりのしたお餅みたいに、一年も二年も三年も、みんなくっついてて、どれがどれだかわからないんだけどね、その年頃の一年間といえば、くっきりしてるし、すごく濃密。と言われても、当事者の爽子ちゃんにはぴんと来ないだろうけど、そうなのよ。

 

中学二年生の爽子は転校するまでの数週間を家族と離れて、洋館「十一月荘」に下宿することになります。

この台詞は十一月荘の大家さん、閑さんのもの。

 

閑さんのいう年月の一緒くたになって見分けがつかない餅感もわかるし、爽子が感じたであろう大人がしみじみと感慨深げに言ってくる言葉にぴんとこない感じもわかる。

なんとなく感じている今の大人の気持ち、過去に感じた子供の頃の気持ち。

そのふたつが混ざることなくマーブル模様ですーーっとそのまま今の気持ちに入ってくる。

そんな台詞ですが、この本にはそういう瞬間がたくさんあるんです。

 

そんな瞬間が生まれるのは、爽子が自分の気持ちを客観的に捉え、けれども決して人ごととして突き放さずに、自分の気持ちとして抱きしめることができるからでもありますが、十一月荘に住む大人たちが爽子に触発され自分の子供時代を振り返るからでもあります。

 

十一月荘で暮らしている大人たちは本当に素敵な人たちで、のびのびと自分らしく、でも丁寧に生きている人たちです。

その大人たちが爽子と交流することで、自分の子供時代を振り返って話す場面がいくつかあるのですが、そこの場面が爽子の今感じてる気持ちに寄り添いながら、でも大人になった今だからこそわかる大人目線で爽子の不安を取り除くように話してくれるんです。

 

その優しい眼差しがあるからこそ、あの頃感じていたことはそういうことだったのか。今思えばいい思い出だったなぁと思える。

少女期の仲のいい友達といる時の一点の曇りもない無敵な楽しさとか、
どんなところにもころころと転がっていってしまう感情とか、
なんとなくどことなく抱えてしまっている不安をやさしく見守ってくれるように書いてくれているからこそ、恥ずかしさとか気まずさとかなしに柔らかい気持ちで思い出すことができる。

この本があの頃感じたたくさんの気持ちを覚えてくれているから、大丈夫だと思える。

 

この本は、私にとって日々薄れていく子供時代を大切に取っておいてくれる宝箱のような本です。

 

 

 

私が持っているものは大人でも手に取りやすいこちらの新潮文庫なのですが、あいにく絶版で古本しか…。

でもこの装丁がすごく好きなんです。作品の世界観、爽子の内面世界が現れた表紙画だと思います。

 

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今手に入れやすい新品はこちらの講談社青い鳥文庫です。

 

十一月の扉 (講談社青い鳥文庫)

十一月の扉 (講談社青い鳥文庫)

 

 

 

『緑の模様画』

 高楼方子さんは児童文学の作家さんなのですが、大人にも寄り添うような書き方をしてくれます。

 けれどその「大人」というのは、傷ついた子供を内包している今の自分、傷ついたまま大人になってしまった自分でもあります。

それを実感したのは『十一月の扉』の次に読んだ『緑の模様画』という作品。

その中にこんな台詞があります。

 

ちょうどあんたたちが少しずつ大人になっていくのと反対に、中年のおばさんは、少しずつおばあさんになっていくでしょ、どんなに若く見えたってね。あんたたちくらいの歳の子が、人によって神経過敏になるのと同じで、おばさんたちも、気持ちがふらふらする人はいるんじゃないのかねぇ。体の影響はばかにならないもんだから

 

私はこれを読んだ時に心底、子供の頃に読みたかったと思いました。
そうすれば、傷つかず苦しまずにもっと上手に自分を守ってあげられたかもしれないと。

子供というのはどこかで、大人のことを完璧な人間だと思っています。
自分が大人になるにつれて、大人というのは思っていたより大人ではない、と段々と気づいていくのだけれど、そんなことを知らない子供は完璧でない大人にしばしば傷つき苦しめられます。

 

この台詞を読むと、大人じゃない大人に傷つけられたあの頃の気持ちが蘇り、今あの頃自分が対峙した大人じゃない大人に自分がなりつつあることに気づかされます。

 

高楼さんの児童文学作品を読んでいて沸き上がってくる感情は自分が子供だった時のことを思い出しているというものではないのかもしれません。
そんな相対的なものではなく、その感情を感じたことのある、その時の自分になってしまっているのです。

そうしてまた気づかされることは、
私というものは子供の頃の私、大人の私とわけられるものではなく、私は産まれた時から色んなものを抱え込みながら連綿と続いてきた、ただの私なのだということ。

私の中にすべての時代の私が住んでいるということ。

いつの時代の私でも、何がきっかけで現在の私の中に顔を出すのかわからないのだということ。

そのことに気づけたから、だから今もまだ確実に私の中に存在する、完璧じゃない大人に傷つき苦しんだ私が救われたような気持ちになりました。

 

 

緑の模様画 (福音館創作童話シリーズ)

緑の模様画 (福音館創作童話シリーズ)

 

 

 

耳をすませば

 

『十一月の扉』はまず冒頭のシーンからしてわくわくします。

今までもあったはずなのに、こんなものこの近所にあったっけ?というような素敵な建物に気づいて、翌日自転車であそこまで行ってみようって爽子が思うシーンなんですけど、ここでもう物語と冒険の始まりのどきどき感がたっぷり。

そして翌日にその洋館を見に行った帰り、爽子いわく「その辺の文房具屋とは、まるで趣がちがった」文房具店でお小遣い一ヶ月分に等しい値段のノートを買ったことをきっかけに、身近にいる人物を動物に当てはめて登場させる物語を書き始めるんです。

 

ここまで書いたらお気付きの方も多いでしょう。

そうこの『十一月の扉』は『耳をすませば』にとても似ているんです。

聖司みたいな男の子も出てきますし。

 

私が『耳をすませば』に触れたのは多くの人がそうであるように映画が最初だったのですが、その後なんどもなんどもその世界に触れてきたものは、映画でも原作の漫画でもなく、原作の漫画をノベライズしたものという…。

でもすごくいいんです。これが。

原作の方は聖司の兄と雫の姉が高校生として出てきたり、聖司はヴァイオリンをつくっているのではなく絵を書いていたり、設定が色々と違っています。

なんていうかもっと少女漫画チック。いや少女漫画なんですけど。原作者柊あおいさんですし。

 映画『耳をすませば』をお好きな方には一度読んでみてほしいです。

 

 

 

 

 

耳をすませば (りぼんマスコットコミックス)

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